紺碧 十一






思い返せば、初めて出会った時から、もう九年が経とうとしている。
京にいる時や他の場所であっても、よくこうやって彼の私室で彼の言葉を待っていた。
ある時は書き物をしている背中を見つめていたり、思案を巡らせている横顔を眺めたりしながら。

そうして彼はいつも溜息をついた。
しんと静まり返った部屋に、重く低く放たれる彼の声。

色々な事があったな、と紫苑はしみじみと昔を思い出す。
副長室に呼び出される時は個別の用事や任務を言い渡される事もあったが、
大概は紫苑の行動による小言や説教がほとんどだった。
穏やかな時もあったとは思うが、あまり楽しくない話題ばかりだった気がする。
何度も離隊を言い渡されて、決して覆らない鬼副長の処断に涙した事もあった。

それでも自分は、よくそんな部屋に居続けたものだと思う。
他の隊士なんか部屋の近くですら寄り付かなかったのに、紫苑は彼の言葉に反発したり言い返してばかりいた。
いくら想い人だとはいえ無鉄砲にも程があると今更ながらに感じている。
一歩間違えれば、自分だって鬼副長に斬り捨てられていたのかもしれないのに。

(……いや、それはないか)

何だかんだ彼は紫苑には優しかったから、離隊はあれど、いきなり斬られるような事はなかったのだろう。
結構初めの頃から特別扱いされていたのだと今になって思う。
それでも、恋情のそれとは違うらしかったが。

(わかりにくい)

あの頃と、今と、彼の中で何がどう変わっているのか紫苑には判別できない。
目の前の想い人は、紫苑を呼び出しておきながら無言で目を伏せたままだ。
何度もこのやり取りをしてきたおかげで、彼が無言や無表情でいても機嫌がいいか悪いかは流石に読み取れる。
そして執務室の自分の席で静かに座っている彼は今、機嫌が良くない。
どちらかというと、怒っているというよりは脱力感に満ちている。

「土方さん……疲れて、ます?」

いつもとは違う渋面に恐る恐る訊ねてみるが、土方からの返事はない。
やらかしてしまったらしいという事はわかるが、思い当る事がありすぎて絞り切れない。
じっと覗き見しながら待っていると、ついに深い溜息が聞こえる。

紗矢
「えっ、はい」

本当の名を呼ばれて思わず顔を上げるが、土方は掌で額を押さえ苦悩するように項垂れたまま。

「……俺はな、我慢してるんだよ、これでも」
「?」
「惚れた女が生きて帰って来て、なのに二日も目を覚まさなくて、
やっと目を覚ましたかと思えばふらふら出歩いて、仲間達に囲まれてやがる」
「あ、あー……」

命令違反が原因ではない事に安堵はしたが、反応に困った紫苑の返事が間延びする。
何を我慢してるのかと首を傾げれば"惚れた女"と言われ、そして普段と変わらない行動をしていたはずの事を指摘され。
つまりは紫苑の行動に不満を持っているようで。

嫉妬と、沖田は嗤った。
まさかそんなと思っていたのに、つまりはそういう事なのだろうか。
図らずも全く外れてはいないらしい。

「……すいません」

まだこの状況に慣れていない紫苑は、とにかく自分が至らなかったのだろうと思った。
気恥ずかしく思いつつ、とりあえずの言葉を返すが土方の眉間の皺はさらに増える。

「お前、斎藤とは何もなかったのか」
「え?そんな、何もないですよ……」
「本当にだな?長年連れ添った夫婦みてぇな雰囲気させやがって」
「一君とはずっと一緒に戦ってただけで――」

畳み掛けるように斎藤の名前が出て紫苑は困惑する。
心配するような事は何もないとはっきり否定しようとして、はたと思い出した。
その一瞬の躊躇を土方は見逃さない。

「何だ」
「え、いや、何も……」
「何かあるのか」
「いやぁ、あれは違うっていうか」
「いいから早く言え」
「……その、一君を助けようとして血を飲ませた、けど……」

土方の威圧に耐えられず、ついに言葉にしてしまってから、ある事に気付く。
救命の為とはいえ異性の唇を塞いだのだが。

(私、もしかしたらあれが初めてかも……?)

若い頃に誰かと唇を交わした事などなく。
それなりの年齢になってからはずっと目の前の人を想っていたから、つまりはそういう事で。
大切にとっておいた訳ではないが、何か女として大切な意味を持っているものだったような気がする。

ぐるぐると思考の渦に沈んでいく紫苑の顔を凝視していた土方はついに堪忍袋の緒を切れさせた。
がたんと音を立てて立ち上がる土方の目は完全に吊り上がっていて、怒らせてしまったと紫苑は慌てて取り繕う。

「お前は警戒心がなさすぎる」
「あ、あの時は仕方なかったんですよ!」
「んな事はわかってんだよ。だが距離感が近すぎるって言ってんだ」

どすの効いた声でじりじりと近付いてくる足音に、反射的に後ずさる。
口移し、という単語を出さなかったのに聡い彼にはお見通しなようで。
余計な事を言ってしまったと後悔しても時すでに遅く、背中に壁の感触が触れる。

逃げられなくなった所に、肌が触れそうな距離まで土方の顔が迫る。
間近にある細められた双眸に、囚われたように全身が固まった。

「ほら、こんな事されても逃げねぇだろお前」
「い、いや、それは土方さんだから……!」
「俺だから?」

短くなった彼の髪がさらりと流れ落ちて紫苑の頬を掠める。
びくりと心臓が跳ねあがったのをじっと見透かされているようで、咄嗟に逃げ出したくなった。
この状況についに耐え切れなくなって、何かを言おうとした唇が塞がれた。

「っ!」
「……真っ赤だな、お前。そんな顔は、流石に他の奴らには見せねぇよな」
「あ、当たり前、ですよ……」

唇から全身にかけて茹だったかのように熱を持つ。
熱くなった顔を見られたくなくて、土方の視線から必死で顔を反らす。

「……土方さん、急すぎますよ」
「何がだ」
「この前まで、全然こんな素振り見せなかったじゃないですか……っ」

嬉しいけど、怒涛の急展開に紫苑は付いていけない。
手の平を返したように好きだなんだと迫ってくる土方に悔しさすら感じた。

「知らなかったのか?俺は本来、これぐらい情熱的な人間なんだよ。
お前が俺を置いてふらふらしてるからいけねぇんだ」

だが開き直ったように飄々と紡がれた言葉に唖然とした。
今までの言葉だったり仕打ちを思い出すと、恨み言の一つでも言いたくなった。

「ずっと、好きだったのは私の方なのに……むしろ一回振られてるし」
「昔から大事だった事に変わりはねぇよ。それ以上だって気付かせたのは、お前だ」
「……っ」

叶わない恋だと、何度気持ちを押し込めただろうか。
武士として傍にいられるならと、特別扱いされているならそれでいいと言い聞かせてきた。

何がきっかけで彼が心を動かしたのか紫苑にはわからないが、その言葉は少なからずこの身を震わせる。
折浜に着いてから信じられない事ばかり起こる。

「……でも私、全然女っぽくないですよ?」

報われたんだと思う一方で、それでもいまいち自分に自信が持てない。

そもそも、どこを好いてくれたのか自分にはさっぱりだ。
彼は昔から、花街にいるような艶やかな女が好みだったはずで。
色気がないとは常々言われているし、残念ながら全く女らしくない。
千鶴のような清楚さや可憐さの欠片もない。

確認するように弱々しく聞くと、土方が唸り声を上げて紫苑の両頬を掴んだ。

「ああもう、うるせぇな。お前は女だよ、昔からそう言ってるだろ」

面倒くせぇな、と渋面で答える。
それでも納得しきれていない顔をしていると、土方は息を吐いて頬を緩めた。

「そうだな……普段色気なんてこれっぽっちもねぇくせに、覚悟を決めた瞬間、目が変わるんだよ」

命を捨てる覚悟をした目、仲間を助けると言う時の目、勝ってみせるから自分を信じてと言った時の目。
どれも大人びて、決意に満ちた美しい瞳をしていた。

「お前の目が時々、俺をすげぇ震わせる。あれが好きで……だけど見たくねぇ。
あれは、俺を置いて飛び出していく時の目だ」

土方の指に、慈しむように目尻を優しくなぞられる感触が気持ちいい。
すぐ近くにある真摯な顔、彼の強い双眸にこそ自分は囚われているのだと思う。
この心を掴んで離さない視線に吸い込まれるように真っ直ぐに見つめ返した。

「お前は、仲間の為なら俺を置いて行っちまうだろ」
「…………」

それはそうかもしれないと思った。
彼が一番大事だけど、それでも何度も振り切って離れた自覚はある。

「お前が仲間達を大事にしている事はよくわかってる。だからこそ、あいつらもお前を特別に大事にしている」

かけがえのない仲間達は、皆紫苑に優しかった。
だから失いたくないと強く思う。

「だが……それを嫌だと思ってる自分がいる」
「……っ」

唇を土方のそれでなぞられる。
柔らかく甘噛みされて、真綿に包まれながら体の奥が痺れるような不思議な感覚に襲われる。

「お前のその情が、俺以外の誰かに向いているのが気に食わねぇ」
「そ、んなの……」
「わかってる、ただの我が儘だ。だけど、お前が一番に見ているのが俺じゃねぇと嫌だ」

土方から語られる独占欲に、言いようのない悦びを覚えた。
唇を弄られながらの言葉に心臓が躍って息苦しささえ感じる。

「見てますよ……ずっと、土方さんだけを見てたんですから……」
「それでも、お前は行っちまうだろ。だからお前の目に誰も映させたくないとすら思う」

もちろん背中を見つめて、必死で追いかけて、恋情を抱いているのは彼だけだと間違いなく言える。
だけど、ここで"はい、もう絶対に離れません"と言えないのが紫苑だった。
誰よりも彼だけを想っているのに、他の仲間達も大事で手放せない。
きっと、また誰かが窮地に立たされたら、自分は彼の手を離して行ってしまうのだろう。

(ごめんなさい、土方さん)

彼の望む言葉を口にできない事を申し訳なく思う。
だからその代わりに、ゆっくりと顔を上げて自ら土方に口付けた。

「愛してます、土方さん……誰よりも」

彼の気持ちが切なくて、胸が苦しくて紫苑は眉尻を下げて微笑んだ。
口付けなんてまだ恥ずかしくて仕方ないのに、この時ばかりは自然に体が動く。
少しでも安心してくれるならと、その一心だった。

「この気持ちは、土方さんだけに、です」

静かに紡げば、土方は少しだけ寂しそうに笑った。
恐らく紫苑の感情など百も承知で、それでも呑み込んでくれたのだろう。

「その目だけは、誰にも見せるなよ」
「……はい」

確かな返事をして、また唇を重ね合った。












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ちょっと嫉妬させるつもりが、かなり爆発してしまった。