紫苑は役職で言うと、土方直属の守衛新選組のただの一兵士だ。
だけど近頃は、土方が何処へ行くにも紫苑を連れて歩くので最側近という認識が広まってきたのか、
仕事で土方の執務室に向かう時などに、土方がいなくても衛兵は紫苑に直立の姿勢をとる。
何用で来たかなど名乗る事もする必要なく、どうぞと中へと通されるのだが。
(恥ずかしい……)
予想もしなかった時に想い人と一線を越えてしまい、紫苑は勝手に後ろめたさを感じていた。
しかもいつも行く執務室の隣の仮眠室で。
あの時はそんな余裕もなかったが、誰かに聞かれでもしてたらどうするんだと今更ながらに心配になってしまった。
特に衛兵なんて、こんなすぐ近くにいるというのに。
「あの、どうかされましたか?」
「い、いや……何でもない」
いつまで経っても執務室に入らずぶつぶつと念仏を唱えている紫苑に、衛兵が声をかける。
思わず肩が弾みそうになったが、努めて平静を装って扉を開けた。
ちゃんと男の顔をできているだろうか、近頃の紫苑はそれを不安に思う。
「紫苑か、遅かったな」
「すみません」
「悪いが今から少し行く所ができた、付いてこい」
「……はい」
目の前の色男はこういう事に慣れているのか、全く平常通りで。
想いを通じ合わせた者同士とは思えないようなあっさりとした態度で執務室を出ようとする。
彼の背中に思わず恨めしい目を向けたくなったが、いやいやと我に返って首を振る。
(いや、まぁ、軍隊なんだから、それでいいんだって……)
何を期待しているのか自分でもよくわからず、脳内で雑念を散らせていると土方が振り返る。
「どうした?」
「え?」
頭上から、真っ直ぐな目が紫苑を覗う。
「何か問題でも起きたか?」
「……いえ、何も……大丈夫です」
まさか、このよくわからない感情を吐き出す訳にもいかず、居た堪れない気持ちで視線を落とすと。
土方はじっと探るように紫苑を見下ろして、そして「何もないならいい」と答えた。
それで執務室を出るのかと思いきや、彼は紫苑の髪に手を乗せ、そして撫でる。
え、と顔を上げると、今度は頬に唇を押し当てられた。
「!?」
「なんだ、照れてたのか」
「!!……言わなくてもいいのにっ!」
即座に顔を真っ赤にした紫苑に、土方が楽しそうに笑う。
それに余計に動揺して、力一杯肩を殴ろうとした手を止められた。
「はは、悪い悪い、お前がそんなに深刻そうな顔してるからだ」
普通にしとけ普通に、と笑いながら紫苑の頬を指でなぞる。
そのどれもに一々反応してしまう事に悔しさすら感じた。
恐らく彼は、紫苑がこうなるのがわかってたから敢えて普通にしていたのかもしれないと気付いた。
「……やっぱり慣れてるの、腹立ちます」
「わかったわかった」
もう行くぞ、と扉を開けようとするので紫苑は必死で男の顔を取り戻す。
その準備を見届けてから廊下へ出た土方に、衛兵がさらに姿勢を正す。
どうか今の会話も聞かれていませんように、そう願う紫苑だった。
余談だが、この紫苑のわかりやすすぎる反応に、衛兵はともかく旧知の仲間達はしっかり気付いていた。
一人慌てる紫苑に対して、以前にも増して手放さなくなった土方の堂々とした態度に、
もやは誰も何も言う気すら起きなかったのだが、そんな事情を紫苑は知らない。
薄桜 五
その日、大鳥圭介は執務室を出て、目的の部屋へと続く廊下を歩いていた。
何人かの部下とすれ違い、人通りがなくなった少し先で、
ぼんやりという形容が正しい様子で外の景色を眺めている人物を見つけた。
藤沢紫苑という人は新選組の古参の幹部であり、今や土方歳三の最側近として扱われている。
彼、いや彼女は女性でありながら男に紛れ男として生活し、刀を振り回す。
周りの幹部達も当たり前のように彼女を前線へ立たせ、命懸けの戦をさせる。
女性である以上、女としての楽しさを味わわせてあげたいと思った事もある。
だけど少々荒っぽくとも、仲間達の輪の中にいるのが彼女にとっては一番幸せなんだろうと思うようになった。
男のように勇ましく、だけど仲間達とは元気に笑い、今の横顔のような憂いを帯びたような表情もする。
その時々で違った一面を見せる中性的な美しさがあった。
「……あ、大鳥さん」
「こんにちは、藤沢君」
不安に満ちた女性のような顔がこちらを向き、少年っぽく小さく頭を下げる。
「何を見ていたんだい?」
「……その、港が見えるかなと」
紫苑の視線を辿って外を見遣るが、流石に船の帆までは見えそうにない。
街はほとんどが雪に覆われていて、眩しいくらいの白さばかりが広がっている。
見えないよと返事をしてもよかったが彼女の目は真剣そのもので、具体的な言葉は避けた。
どうして港を気にするのだろうと疑問が浮かんだが、
ふと思い出したのは少し前に土方が榎本に要請した事柄。
「港といえば……今は開陽も帰港してるね」
「……そうですね」
目が少し揺れた、やはり紫苑が"見たかった"のは開陽丸で間違いない。
どうして彼女がと思ったが、あの件に関してはそもそもずっと疑問だったのだ。
「君は知っているかい?どうして土方君は開陽を待機にさせたのだろうね」
「…………」
「松前城にいて、大急ぎで榎本さんに知らせなければいけない何かがあったのかな」
実際、開陽丸の援護がなくても江差を落とせたから結果としては良かった。
だけど松前でどうしてそのような判断を下したのだろうと、大鳥は気になって仕方なかった。
軍議で決められた事を独断で変えた。
榎本は「戦慣れしてる土方君が言うのなら」と了承していたが、一体何があったというのだろう。
理由を土方に尋ねてみても、彼は榎本にした説明と同じ事しか言わなかった。
彼に待機の考えがあったのなら最初から軍議で提案すればよかったのに、その時の彼の様子におかしな点はなかった。
つまり松前までの行軍で心変わりするきっかけがあったはずなのに、彼はそれを教えようとしない。
「…………」
「……僕としては、結果上手く機能してるから別に構わないのだけど」
紫苑は何も言わない、知らないとも言わない。
知っているのだけど言えない、そんな所だろうと大鳥は思う。
だけど純粋に疑問に思っただけで、追及までするつもりはなかった。
緊張していた紫苑が少しだけ安堵する表情を大鳥はじっと眺める。
「君は、本当に不思議な人だね」
「……え?」
もう何度、彼女に対してそう思っただろうか。
だけど結局その言葉しか出てこないのだ。
一見すると、誰もが目を惹かれてしまう程の華がある訳でもない。
女である事を隠しているからか、集団の中で目立った行動もしていない。
本当に普通の、中性的で華奢な新選組隊士なだけだ。
だけど大鳥は気付いた、紫苑がふとした時に見せる、吸い込まれるような深い眼差しを。
彼女は仲間達や土方の前ではそんな柔らかい笑みを浮かべる。
「土方君が変わったように見えるのは、君のおかげかな?」
少し前までは、ひた走る土方を必死で追いかけているようだった彼女。
女を捨ててまで傍にいたがる紫苑を可哀想だと思った事もある。
だけどいつの間にか、その立場が逆転している気がした。
蝦夷に向かうぐらいの頃から、土方の視線は彼女ばかりを探すようになった。
「君がいて初めて、土方君は心の安定を保っていられるようだ」
「……それは、迷惑ばかりかけているからじゃないですかね?」
紫苑は遠い目をしながら苦笑する。
半分本心、半分照れ隠しだろうなと大鳥は笑う。
「そんな事はないさ。君が土方君を支えてくれて感謝しているよ」
一時期のような危うさはもう彼には感じられない。
土方も紫苑を特に大事にする事を隠さなくなった。
最近ではむしろ、彼が彼女に振り回されているように見えるのは気のせいではないだろう。
「きっと今此処で、僕が君を口説いている所を土方君に見られでもしたら怖ろしい事になるだろうね」
「…………」
それは冗談ではあるが、嘘ではない。
男女のあれこれまで首を突っ込むほど野暮ではないが、大鳥が言いたいのはそこではない。
色恋を差し抜いても、紫苑の存在は土方を大きく揺るがすものになっているだろうと思う。
「……君はもしかしたら、本当に重大な存在なのかもしれない」
「どういう、意味ですか?」
ある意味では、この箱館軍は安定した土方で保っていると言っても過言ではない。
陸軍奉行並という役職ではあるが、陸兵のほとんどが彼を尊敬し慕っている。
彼次第で軍の士気は大きく変わるだろう。
だからこそ、もっと言えばこの軍の命運は彼女にかかっているのかもしれない。
「君はさながら、僕達の勝利の女神かもしれないという事さ」
「いやいや、そんな大層な人間じゃないですし、おこがましいですよ……」
「そうかな?あながち間違いではないと思うよ」
怪訝な表情ばかりする紫苑はそんな訳ないと強く否定するが、大鳥は大真面目だった。
現に彼女の周りにはいつも仲間達がいて、彼らが彼女をとても慈しんでいるように見える。
旧知の仲だからだけではなく、それ以上に強い意志のようなものを感じている。
意志がまとまり結束力となり、新選組の強さとなっているのではないかと大鳥は考えている。
「新選組の結びつきを強くしているのは君だと僕は思う」
自然と彼女の周りに仲間達が集まり、いつもその輪の中で楽しそうに笑っている紫苑。
だけど戦に出ると人が変わったように命懸けで仲間達を守ろうとする。
そんな姿を間近で見ていれば彼女への信頼が厚くなるのもわかる。
だけど、それだけではないのだろう。
紫苑の姿が見えないだけで土方は僅かに焦りを見せる。
好き者同士だからという理由ではなさそうなのは、彼が戦時のような深刻さを滲ませるからだ。
そして仲間達も、とても優しい目をして彼女を守っている。
恐らく、大鳥が紫苑をどうにかしようとした瞬間、土方よりも先に仲間達に阻まれるだろう。
もしかすると、新選組という組織の本当の中心にいるのは彼女なのではないかと、そんな気さえするのだ。
一体、彼女に何の魅力があるというのか、大鳥にはわからない。
「それとも、君には何か特別な力でもあるのかな?」
「…………っ」
土方が、新選組の仲間達が彼女の為に動こうとする何かを彼女は持っているのだろうか。
紫苑の眉がぴくりと動いた気がしたが、大鳥にとっては答えを出す必要のない言葉だった。
「……いや、僕としては戦に勝てるならそれでいいんだ」
気にはなるが、大切な我らの女神を暴くような真似はしない。
大鳥は目を伏せて笑い、紫苑が心配している箱館の港を振り仰ぐ。
今もそこには、箱館政権軍の旗艦である開陽丸が雄々しく鎮座している事だろう。
「春になれば、間違いなく総力戦になる」
「……っ」
「今度こそ、僕達は死力を尽くして迎え撃たなければならない」
紫苑は仲間達といる時の朗らかさとはほど遠い重苦しさで眉を潜めた。
「土方君の事をよろしく頼みたい。色々言ってしまったけど、僕がお願いしたいのはそれだけだよ」
「…………はい」
土方の半身であるだろう彼女に、結局これが言いたかったのだ。
言葉の重さを噛み締めただろう紫苑は大鳥に向き直ると、ゆっくりと決意に満ちた双眸で頷いた。
強くて美しい瞳だと思った。
きっと、皆はこれに惹かれるんだなと少し納得しながら、大鳥は本来の目的の部屋へと急いだ。
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前半の甘めから後半は大鳥さん視点。
他視点から主人公を語るの楽しい。