二股口ではまたしても戦が起ころうとしていた。

再び進軍してきた新政府軍の規模が前回とは比べものにならない程大きくなっているようで、
至る所から陣の煙が上がり、威嚇の音が辺りに響き渡る。

一度勝利していた土方軍の士気は高かったのだが、その敵の多さに兵達は動揺した。

「前だって、やっと勝てたのに……」
「あんな数、無理だ……」

ざわざわと、味方内で不安が広がり伝染していく。

紫苑も流石に眉根を寄せた。
今回はどれだけの間銃を撃ち続けなければならないのかを思うと気が遠くなるようだ。
こちらが先に弾薬を切らしてしまう事だってある。

じわじわと絶望感に襲われていると、背後の土方が前に進み出る。

「安心しろ、あれは大軍に見せる為の偽装だ!」

そう声を上げると兵達は静かになった。
土方が言うには、煙はわざと焚いているだけにすぎず、
ラッパの音を鳴らして此方の不安を煽っているだけなのだと。

彼に言われればそうかもしれない、紫苑と同じように兵達も落ち着きを取り戻す。

「あと少しだ!これが終われば褒美の酒をやろう!」

彼の言葉で、場はあっという間に鎮まった。
流石だなと感心していると、土方は最後にこう告げた。

「退く者は、斬る」

(相変わらずだなぁ)

持ち上げて鼓舞させて、そして厳しさも忘れない。
いつかも彼はそう言っていた事を思い出し、変わっていない事に紫苑だけは笑っていた。

その変わらない強さが、ここまで自分達を導いてきたのだ。
だから今回だってきっと勝てるだろう、そう思わせてくれる。

軍は一層引き締まり、そして再び死闘が訪れる。






薄桜 七






鳴り止まない発砲音、無数に飛んでくる銃弾。
前回と同様に、どちらかが先に弾切れとなるまで続けられる銃撃戦。

それでも紫苑は音を上げない。
土方の指揮の通り、ひたすらに弾を込めて撃ち続ける。

どれくらいの時間が経ったのかは途中から考える事をやめた。
だけど羅刹である紫苑の体が自然と軽くなったので、そこで太陽が沈んだ事に気が付いた。
周囲を見渡せば夜が更けていたが、銃声は互いに途切れる事はない。

「前線を交代しろ!」

撃ち続けて熱くなった銃を抱え、号令の通りに後ろに後退する。
身を低くしながら桶の水で銃身を冷やしている間は、僅かではあるが体が休められる。

小さく息を吐き出しただけで、何かを考えている余裕はなかった。
ただ無意識に、背後で指示を出し続けている土方を視線に入れる事が、
紫苑なりの気合いの入れ直しだった。

(よし……!)

銃弾を補充し、さあまた前線に戻ろうと思っていた所に、 突然紫苑の体が内側で暴れ出す。

「っ!?」

足が震え、自由の効かなくなった体を抱き締めながらその場に蹲る。
突然の変調に周囲の兵達がどうしたと紫苑を取り囲む。

藤沢君!?どうしました!?」
「……っ!」

近くにいた島田が駆け寄って来てくれたが、紫苑にはそれに答えられる余裕がない。
食いしばった歯を少しでも緩めれば、苦痛の音だけが漏れてしまうだろう。

(ああ、駄目だ)

こんな皆が見ている前で獣になる訳にはいかない。
どこか、姿を隠せられる場所までどうにか戻らなければと必死で足を動かそうとすると。

「お前達は持ち場に戻れ!島田、少しの間此処を頼む」
「わ、わかりました!」

異変を察知した土方が背後から紫苑を抱え、兵達を散らしてくれる。
相変わらずの察しのよさに感謝しながら、紫苑は土方の力強い腕の中で密かに羅刹となる。

後方の誰もいない陣幕の中に運び込まれ、
紫苑は懐の薬を飲み込んでみたが、やはり動悸は一向に治まりそうもない。

「っ……は…ぁ…!」
「……やはり飲み続けると効かなくなるんだな、その薬は」

暴れ出したい気持ちを必死で抑えつけたくて、
しゃがみ込んだ地面の土を握りしめ、苦しい呼吸を繰り返す。
その様子を土方は静かに見つめていた。

「ひ、じかた……っ、さんは…!戻っ、て…っ」
「飲め」

妙に冷静だった土方は、紫苑の言葉も聞かずに首元の襟を広げようとする。
その光景の背徳感にぞわりと背筋が震えて、 自身の中の何かが悦んだ事に驚いて紫苑は慌てて首を振る。

「い、嫌です……!」
「お前、俺には飲ませたくせに自分は拒否するっていうのか!?」
「だって、鬼じゃな……っ」
「もうそんな事言ってられる状況じゃねぇだろ!」

紫苑が仲間達に血を与えたのは、自分が鬼だったからだ。
だけど彼は鬼ではなく、ただの人間の血を口にした場合どうなってしまうのか。
確証はないが、良くない事だけは紫苑の朦朧とした意識でもわかる。
記憶の奥底にいる、狂気に壊れていった隊士達が思い出される。

「い、やだ……おかしくな、る……っ」
「どの道、そのままじゃ何もできねぇだろ」
「……っ!」

そうだ、こうしている間にも戦は続いていて。
指揮を取るはずの土方が此処にいては、そのうち兵は動揺するだろう。
そして軍の統率がとれなくなれば、それだけ戦況は不利になってしまう。

「は……ぁ……っ!」

ああ、血が欲しい、目の前の人でもいい、誰でもいい。
息ができない、だから楽になる薬が欲しい。

頭の奥でそんな欲求ばかりが紫苑の意識を支配していく。
混濁した思考でも何とか必死に思うのは、早く土方を戦に戻さなくてはという事。
つまりは、いつまでも紫苑が首を振り続けてはいけないのだ。

どちらのものかわからない発砲音が、雨のように響いて地が揺れる。

「……わかり、ました」

脂汗を滴らせた紫苑が頷けば、土方はすぐに首筋の肌を見せた。

(どうして、傷付けたくない人を傷付けなければいけないんだろう)

罪悪感で涙が出そうになったが、紫苑もまた、同じ思いを土方にもさせてしまったのだろう。
ごめんなさいと今更ながらに後悔して、紫苑は土方の首に腕を回す。

「っ」

抱き付くような体勢になれば体温がわかり、そして顔を寄せれば彼の匂いを感じて変な気分になる。
妙な気恥ずかしさを覚えながら紫苑は土方の肌に唇を付ける。
初めは恐る恐る、だけど歯を貫かせる為に勢いよく噛み付いた。

「―――!」

流れ込んできた温かい液体が舌から喉へ流れていくと、ぞわりと背筋が震えた。
今まで生きてきて、こんなに美味しいものはあっただろうかと思うほどの衝撃。
血を飲んだだけなのに、まるでいつかの夜の事のような快感が体を駆け巡る。
甘くて、気持ち良くて、どこかに飛んでしまいそうだった。

そうしていつの間にか、我を忘れて土方の傷口に吸い付いていた。

「……落ち着いたな」

ぼんやりした意識の奥で、そんな声がする。
ふわふわしているので定かではないが、確かに苦しさはなくなったように思う。
未だぐったりしている紫苑を壁にもたれ掛けさせ、土方は立ち上がる。

「ひ、じかたさん……」
「しばらく休んでろ。もし動けるようになったら戻ればいいが、無理はするな」

跡形もなくなった首元を直すと、土方は優しい眼差しをして陣幕を出て行った。

「…………」

息苦しさはない、動悸も治まっている。
もう少し落ち着いて、意識がはっきりしたら自分も戦に戻らなければ。

目を閉じた紫苑の、妙に冴えた耳が外の音を拾う。
戦の音、銃弾の音、人の走る音、誰かの怒号。
まるで、どこに誰がいるかが全てわかるようだ。

「…………」

どくん、と静かになったはずの鼓動が音を立てる。
甘さに満たされていた喉が、さっきまで液体を飲んでいたはずの唇が、嫌に渇いている。

(喉が、渇いた)

さっきはあんなに気持ち良かったのに、もうなくなってしまった。
なくなるとまた喉が渇く。渇くと苦しくなる。
もっと、欲しい。誰のでもいいから、あれが欲しい。

(けど、戦わなきゃ)

戦に戻って、戦わなければならない。
敵を、斬らなきゃいけない。
敵ならいい、いくら殺してもいい。
そうしなければいけないんだ。

(血が、欲しい)

「――――」

白い髪の獣が目を覚ます。
高貴な黄金色の双眸は血走り、強く強く前方の一点だけを見据え。
かの人の血で汚れた唇を拭って、静かに立ち上がる。

さっきまで鉛のように重かった体が嘘のように軽やかになり、
飛び跳ねる勢いで陣幕を飛び出して駆けた。

味方達が洋式銃を運んでいる中を、紫苑は迷わず左に差した刀を抜き、走る。

「え……?」

味方の陣地を突然飛び出していった誰かに、兵が驚きで振り返る。
だけど紫苑は風のように走り去り、そこにはもう何もない。

「な……!?おい待て、紫苑!」

兵の動揺に気付いた土方が、その後ろ姿に手を伸ばすがもちろん届く訳がない。
さっきまで後方の陣幕に休ませていたというのに、一体どういう事なのだ。
抜き身で迷う事なく駆けていく紫苑はどう見ても普通ではない。
その証拠に髪は白いままで、嫌な予感がしてとにかく追いかけるしかないと思った。

「くそ……!何人か俺に付いてこい!」

背後の兵を連れて走るも、紫苑は既に遥か彼方にいた。

「と、突撃だ!」

新政府軍が慌てたように叫び、紫苑に集中砲火を浴びせようとする。
だが銃弾の軌道を読める紫苑は次々とそれらを刀で弾き、体を捻らせながらも止まる事なく走り続ける。

「な、何で当たら……ぎゃあああ!!!」

驚愕に満ちた鉄砲兵の首を斬り落とせば、大量の鮮血が飛び散った。
それを自ら受けるようにして浴びれば、全身が歓喜に震えた。

(ああ……美味しい)

唇に付着した血を舐めれば、その甘さが病みつきになる。
生身に付着した血液ですら、肌が悦びに泡立っているようだった。

そのまま、呆然としている敵を薙ぎ倒す姿はもはや凄惨だった。
ある者は胴体を真っ二つに寸断され、ある者は刀で突き刺されたまま縦に斬り払われる。
我に返った敵が至近距離で発砲するが寸前で避けると、驚愕している兵の両腕を斬り落とす。
風のように速く、銃弾すらもすり抜けて、鉛色の刀身が闇夜に赤色を降らせる。

ただただ目の前にあるものを斬っているだけ、そして血を浴びるだけ。
何人もの血が一気に弾け、その中央で血みどろになった紫苑は笑っていた。
くすくすと小さな声を漏らしながら、愉しそうに口角を上げた。

「ば、化け物……っ!」

敵兵達すらも、光のない紫苑の目に戦慄する。
焦点の合わない梔子色が闇の中で朧げに浮かぶ。

立ち尽くす敵兵達の恐怖の表情、紫苑にとってはそれすらも可笑しく思えた。

「……ふふ」

どうしてだろう、何だか愉しいのだ。
何が愉しいのかわからない、だけど右手に握り締めた刀だけは勝手に動く。
そうして赤い飛沫が舞えば、凄く満足感に浸れるのだ。
全身にかぶった血を全て舐めとってしまいたいと思うほど、その色は魅惑的だった。
赤色だけが紫苑の識別できる色だった。

――気持ち良い、もっと欲しい。

湧き上がる本能のまま恐れ慄く敵兵を斬ろうとして、できなかった。

紫苑!!」

背後から走って来た足音が誰なのかは辛うじてわかる。
誰よりも斬ってはいけない人な気がするから刀を振らずにいれば、まず視界を塞がれた。

真っ暗になったまま、あっという間に味方側の陣地に引き摺り戻される。
目を覆われていた手がどかされると、まず見えたのは土方の焦った顔。

楽しみを邪魔された事の不満を口にしようとして、頬を叩かれた。

「っ……?」
「おい、紫苑!俺がわかるか!?」
「、……ひ、じかた、さん?」

どうして彼の顔が目の前にあるのだろう。
どうしてそんなに焦った表情をしているのだろうか、
そんな事を疑問に思うのにそれ以上の思考は回らない。

「ああそうだ!正気に戻れ!」
「……あ、れ……私、どうして―――」

どうして此処にいるのだろう、そう思った所で紫苑の意識は混濁する。
土方は険しい表情のまま、脱力した血塗れの体を支える。

「っ……」

髪色は未だ白いまま、元に戻らない。
幸か不幸か血の赤色がべっとりと付いているので、よく見なければ髪色と角は周囲にはわからないが。
見た事のない残虐さで敵を斬り殺し、そして笑っていた。
それはつまり、正気を失いかけているという事だ。

今も意識を完全に失っている訳ではないのだろう。
僅かだが腕を動かそうとしたり、何かを喋ろうとしているが、覚醒には至らないようで。
目を開けば、また紫苑は血を求めて刀を振ろうとするのかもしれない。

薬で抑えられない吸血衝動を落ち着かせる為に、止む無く土方の血を与えた。
鬼ではないただの人間の血を与えたらどうなるか、その危険性を考えはしたが、
まさかここまで覿面に狂気性が発現するとは土方としても思ってもみなかった。

正気を失った羅刹が最終的にどうなるかなど、土方は嫌という程知っていた。
京にいる頃から何人もの隊士を処分してきたのだから。

(くそ……先に、そうなるのか)

羅刹化で寿命を縮ませないように言って聞かせてきたが、まさか先に狂気に呑まれる事になるとは。
彼女の為とはいえ、その段階に進ませてしまったのは自分の血であるが故。
土方は歯痒さと悔しさに奥歯を噛み締める。

「っ……敵の陣形が崩れている今が好機だ!そのまま前線を押し遣るぞ!」

戦慣れしているだろう兵達も、無残な光景に息を呑んでいる。
だが突然の斬り込みに、意図せず敵軍は兵を退いた。
それを逆手に取り好転させるしかないと、土方は紫苑を抱えたまま軍を指揮した。

呆けていた味方達だったが、叫ぶ土方に我に返り後退する敵を追いかけた。
そうして意図せず、再び二股口を防衛する事に成功したのだった。











勝利に沸く兵達を部下に託し、土方は単独で五稜郭へ急いで戻った。
馬に揺られ続けながらも腕の中の紫苑はぐったりしていて、起きているのかいないのかわからない状況だった。

血塗れで気付かなかったが、いつの間にか髪色は元の色に戻っている。
だが時折身じろぐ気配がするものの、目は開かない。

「く……っ」

土方の中で嫌な焦燥感が渦巻いている。
恐らく、恐怖を覚えているのだろうと思う。
紫苑がこのまま正気に戻らなかったら、この哀しい獣をどうしなければならないのだろう。

どうすればよかったというのか。
あのまま血を与えずに苦しませたままでいればよかったのだろうか。
だけど結局、酷く渇きを覚えるあの衝動に負けた場合も、
あんな風に人を斬るだけの存在になっていたのだろうとも思う。

まだ、彼女には僅かな自我があった。
味方には目もくれず敵だけを斬りにいっていたのがその証だ。
だから今はまだ、完全に狂ってしまってはいないのだろう。

いつか、もしいつか、味方すらも斬ってしまう獣になってしまったら。

(俺は……こいつを、斬れるのか?)

今までと同じように、斬らなければならないのだろう。
だけど恐らく斬れないだろうなという予感も確かに土方の中にある。

もう、土方には紫苑は斬れない。

(だから、間に合え……!)

最悪な事態になる前にと、土方は馬を走らせる。
五稜郭に到着すると、戦況の報告や状況を訊ねてくる者達すら後回しにして、
紫苑を抱えながら一人の人物を必死に探した。

「千鶴はいるか!?」

千鶴は五稜郭で負傷者の手当てをする配置だったはず。
負傷者やそれを運ぶ人が行き交う間を縫うようにして救護室に飛び込んだ。

凄い剣幕の陸軍奉行並が現れた事に兵達はぎょっとし、
そして抱えられている血塗れの人物にさらに驚きが広がっていく。

どこを見渡しても、寝かせられた負傷兵ばかりが並んでいる。
千鶴、ともう一度叫べば奥からパタパタと慌てた足音が鳴った。

「は、はい!此処にいます!」

手当てに回っていたのだろう千鶴は土方に駆け寄るが、
その腕の中でぐったりしている紫苑を見つけて青褪めた。

紫苑さん!?どこか怪我を……!?」
「怪我はしていない、意識が朦朧としているだけだ」
「こ、こちらへ……!」

紫苑の事情を知っている千鶴はすぐさま他の兵達の目に入らない部屋に案内する。

「怪我ではないんですか!?」
「ああ、これは全部返り血だ」

清潔な白い床に寝かせてもよかったが、いかんせん返り血が酷い。
陣羽織と中衣だけを脱がせて近くの椅子に座らせる。

「すまないが、こいつの為に血を分けてくれないか」
「それは構いませんが……まさか」
「ああ、正気を失いかけている。意識がはっきりしたらまた人を斬りに行くかもしれない」
紫苑さんが……!?」

千鶴が覗き込むが紫苑は目を閉じたまま、音にならない何かを呟いている。
きっと此方の声は聞こえていないのだろう。
土方は苦悶に満ちた表情を浮かべる。

「本当はこんな事、頼むべきではないのだが……すまない」
「いえ、いいんです。私の血で紫苑さんが元に戻るならそれで」

人の血をもらおうとするなど人道的とは言い難く、
それを年端もいかない女性に頼んでいる自分が情けないと土方は思う。
そんな冷酷になりきれない土方の心情を察して千鶴は苦笑しながら頷いた。

千鶴が近くにあった治療用の小刀を手に取ると、
「俺がやろう」と殺傷に慣れている土方がそれを受け取り、千鶴の親指を小さく刺した。
なるべく痛ませないように、だけど血液が採れるように絶妙な深さで切れば、
鮮やかな赤色が溢れるように湧き上がる。
それを器に滴らせて集めると、紫苑の口元に寄せた。

紫苑、飲め」

初めは何も反応しなかったが、液体が唇に触れると、
血だと認識したのか無意識ながらもそれを口に含んで嚥下する。
喉が上下したのを確認して、しばらく紫苑の様子を静かに見守る。

少しの時間を有し、いつもの色の目がゆっくりと開かれた。

「っ……?」

紫苑は数回瞬きをして、目の前にある想い人を見つめ返す。

「土方さん……?」
「ああ。此処がどこかわかるか?」
「此処は……あれ、俺……戦ってたはずなのに……」

状況を整理するようにきょろきょろと周囲を見渡して、此処がどうやら五稜郭らしいという事に気付く。

「せ、戦況はどうなったんですか?」
「心配しなくても勝ってきた」
「そうですか……でも、どうして―――」

どうして自分はいつの間に五稜郭に戻って来たのだろう。
土方と、何故か隣にいる千鶴の心配そうな顔に見つめられ、自身の記憶を辿ると曖昧ながらも思い出してしまった。

脳裏に蘇る赤に埋め尽くされた光景、飛び弾ける血の色に、紫苑は全てを察した。
千鶴が此処にいる意味にも気付いてしまった。

「……俺……血を求めてたんですね……」
「覚えてるのか?」
「何となく……」

今は何も持っていない右手が、敵を斬った時の感触をしっかりと覚えている。
そして付近に脱がされている自身の着衣の赤さが、その凄惨さを物語っていた。

(狂い始めてる……)

土方から血をもらった時、考えていたのは早く前線に戻らなくてはという事だった。
戦わなくてはと思っていたのは確かだが、いつの間にかその意識は変容して、
自身の意思とは関係になしに敵軍に走っていた。

あの瞬間、紫苑は確かに正気を失っていた。

ついにその時が来てしまったかと紫苑は拳を握る。
少しずつ兆候は出ていたが、こんなにも明確な変容が訪れたのは初めてだった。
笑いながら人を斬り、血を浴びる事が愉しくて仕方なかった事を覚えている。
逃げられない絶望感が闇の底から迫ってきているような感覚に、紫苑は焦りを覚える。

「っ……すみません」
「……いや、とにかくよかった」
「…………」

土方は険しい顔をようやく緩ませ、安堵の息を吐いた。
恐らく戦場から五稜郭に戻ってくる間、余計な心配をさせてしまったのだろう。
元に戻れてよかったと紫苑も思っているが、それ以上に予感がして素直に喜べない。

(次はきっと……私はおかしくなる)

もし次に同じような事が起これば、もう正気に戻れないかもしれない。
ぼんやりとした思考ではあるが、そんな気がするのだ。
恐怖感がない訳ではないが、それよりも焦燥感の方が強い。

土方を追いかける為、刀を握る為に自ら羅刹になる事を選んだ。
そして、これまで皆に心配をかけながら散々無茶をしてきたのだから、今更後悔はしていないが。

(頼むから……最期までもってよ、この体)

自分の役目を遂行する前に狂ってしまう訳にはいかないのだ。
ずっと、やらなければならない事があるのだから。
どうかそれまでは壊れないでほしいと、紫苑は奥底の獣に懇願する。

そしていつか全てがわからなくなり、何より大切にしていた仲間達と、土方を傷付けてしまう事になってしまったら、
紫苑は悔やんでも悔やみきれない。
だから、そんな事態になる前に。

「……土方さん」
「……何だ」
「本当に、狂ってしまったら……ちゃんと、斬ってくださいね」
「…………っ」

お願いですから、と懇願すれば、土方は泣きそうなくらいに顔を歪ませた。

彼の気持ちは痛い程伝わってきた。
だけど、それでも彼に頼まなければならない事が申し訳なくて、紫苑まで泣いてしまいそうだった。











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結構血の表現がエグくてすいません。