戦況は悪くなかった。
まず土方軍が二股口を二度も守り通した。
海沿いの松前城では温存していた海軍艦隊が活躍してくれたおかげで、敵艦隊を押し返す事に成功した。
海域を守れた事は今回の戦においてかなり重要だった。
大鳥軍のいた木古内も激しい戦闘だったようで、一時は遊撃隊が窮地に立たされたようだが、
原田永倉などの歴戦の幹部達の援護により危機を脱する事ができた。
そして箱館政府軍の軍艦が敵を抑えていたので海からの砲撃もなく、木古内の前線は崩れなかった。
要所を守りつつ敵軍を押し遣った今が好機だと、箱館軍は湧いていた。
敵を休ませる前にそのまま蝦夷の地から追い出す事ができるのではないかという声が軍内で上がった。
敵軍がやってきた道を各軍が辿り、最後には乙部で合流して敵を挟み、陸から引き揚げさせようという作戦が提案された。
慎重に、だけど迅速に軍議でその詳細がまとまるとすぐさま五稜郭は慌ただしくなる。
集まっていた幹部達はまたそれぞれの防衛拠点に赴き、戦闘が開始される事になった。
その話を土方から聞かされた紫苑は声を張り上げた。
「私も連れて行ってください!」
「駄目だ!」
間髪入れずに土方の拒絶が返ってくる。
「お願いですから!」
「その体で何ができるっていうんだ!今だってふらふらで、まともに戦える訳がねぇだろ!」
そんな事は紫苑だってわかっている。
千鶴の血をもらい正気には戻ったものの、完璧に意識がはっきりする訳ではなかった。
何だか頭の奥に靄がかかっているような感覚で、気を緩ませると途端に思考が回らなくなる。
そのせいで、元気なはずなのに体は重くてあまり自由が利かず、
刀を握っての近接戦闘は危ないかもしれないとは紫苑も感じている。
「それでも!何があっても土方さんと離れたくないんです!」
「……っ」
上手くいけば、これが最後の戦闘になるかもしれない。
ならばここで紫苑が大人しく待っている意味はない。
もしかしたら彼に危機が訪れる定めはいつの間にか変わっていて、
紫苑が動かなくても大丈夫なのかもしれない。
だけど、この目でしっかりと確認するまでは、紫苑は土方の傍を離れる訳にはいかないのだ。
「傍にいさせて下さい!それだけでいいですから!」
何の為にここまで生き抜いてきたのか。
何の為に女を捨て、人殺しとなり、人まで捨てて彼の近くにいたのか。
たとえ戦えなくとも、今ここで離れる事は何があっても選択してはならないのだ。
何が何でも付いていく、という意地のこもった強い目で見つめれば土方は眉根を寄せた。
「……お前、何か視たのか?」
流石に、勘が良い。
どう答えようかと一瞬悩んだのち、紫苑は小さな笑みを浮かべた。
「……ねぇ土方さん。我が儘を言うと私、死ぬなら土方さんの腕の中で死にたいんです」
「な、に言ってやがんだ馬鹿……俺は、お前の死に顔なんか見たくねぇんだよ。俺より先に逝く事も許さねぇ」
突然の話に土方は動揺したが、紫苑は構わず続ける。
「だから、此処に残っていたくないんです」
「…………」
(どう思ったかな)
頭の良い彼は今の言葉で様々な可能性を探り、考えを巡らせているだろう。
先視は何も視ていない、という嘘は付けなかった。
これ以上彼を苦しませたくはなかったから。
だけど本当の事も言えず、紫苑は嘘ではない意味深な言葉ではぐらかす事しかできなかった。
彼は恐らく、紫苑を五稜郭に残す方が危険かもしれないと考えてくれるだろう。
そして自分の傍に置く事を選択してくれる。
「……わかった。だが戦場には出さねぇぞ」
「……はい」
渋々納得させたのだろう、土方はまたも顔を顰める。
「……俺はお前を連れて行きたくはねぇ。だけどお前は、俺がどんなに言っても、
それこそ無理矢理引き止めても、勝手に抜け出して来ちまうんだろうな……」
「…………」
苛立ち、それから悲しみ、様々な葛藤が押し寄せて苦しんでいるのだろう、
拳を震わせて、苦悶の表情を浮かべながら譫言のように呟く。
怒っているような、笑っているような、だけど泣いているような顔をした土方は、最後には諦めたように静かに答えた。
「……俺から離れるなよ」
「もちろんです。絶対に、離れません」
ごめんなさいと、紫苑は何度心で謝っただろう。
(これで……最後だから)
もう、彼を苦しませるのは最後にしたい。
紫苑にとっては、土方に想ってもらえて幸せな生涯だった。
自分より先に死ぬなと言われて、本当に嬉しかった。
だけど、彼にとっては紫苑を愛さない方が幸せだったのかもしれない。
わかっていても、もう止まれない。
薄桜 八
紫苑を連れた土方は二股口に残っていた自身の兵達にこれからの進軍の詳細を伝え、素早く補給の指示を出した。
兵達の疲労も蓄積されていたが、今を逃したらまた新政府軍が新たな作戦を立てて戻ってくるかもしれない。
さらに言えば海から次の援軍がまた上陸してしまうかもしれない。
無理を押してでもやらねばならないと土方は高らかに声を張り上げた。
もしかしたら勝てるかもしれない、その僅かな希望が兵達を揺さぶった。
疲れきってはいたが、兵達の士気は意外と高かった。
(やっぱり、土方さんの存在って大きいんだな)
離れた所で見ていた紫苑はしみじみと感じていた。
新選組の時からそうだったけど、彼は人心を掌握する力があった。
時には冷酷で鬼のように見える事だってあるのに、それ以上に彼に従っていれば大丈夫と思えるような何かがあった。
きっと根底にある優しさだったり、意志を貫こうとする強さを感じて自然と惹かれるのだろう。
紫苑もまた、そのうちの一人だった。
初めて会った時から、土方の強い眼差しから目を離せなくなっていたのだから。
不思議な団結力を見せた土方軍は意気揚々と進軍を始めた。
新政府軍が築いた胸壁を破り、やって来た道を辿って西を目指す。
進んで、いつか西端の海に辿り着けば、他の仲間達と合流できるだろう。
追う立場から追われる立場になった敵軍は少しずつ撤退しながらも抵抗を続けた。
後方を守るように配置された鉄砲隊に塞がれれば、新たな戦闘が開始される。
紫苑は流石に戦う事はできなかったので、土方の背後で補佐の役割をして動いた。
本当は一番に飛び出して敵を蹴散らしてやりたいぐらいの気持ちだったが、
時折頭がぐらりと揺れるので咄嗟に何かにしがみ付くしかない。
(そろそろ、本当に無理かも……)
今度こそ、限界を感じ始めている自分がいた。
安静にしていれば特に問題はないのだろうが、紫苑には大人しく五稜郭で待っているという選択肢はなかった。
無理をしてでも付いてきたのだ。
せめて蹲っている所を見られないようにと、土方に気付かれないようにいつも通りを装った。
「よし、進め!だが突っ込みすぎるなよ!」
敵も足止めをするつもりだけなのか、しばらく銃撃戦が続けば頃合いを見て撤退を始めた。
周囲を確認しながら、じりじりと敵の戦線を押し遣っていくが、
どこかで策を講じている可能性もあるので、闇雲には進むなと土方の冷静な声がする。
「土方さん!左右から別動隊が現れて前線が襲撃されています!」
「やはり来たか」
敵側もただ追われるだけではないのだろう。
撤退する敵軍を追撃するように進ませた土方軍の左右に伏兵を配置し、挟み撃ちにする魂胆だろう。
だがそれも予想していた土方は、あらかじめ編成していた隊を呼ぶ。
「島田は左軍を、右軍は伝習士官隊で伏兵を崩せ」
「わかりました!」
島田と、伝習士官隊隊長の滝川充太郎が頷くのを見たのち、さらに土方は本隊を大川正次郎に任せた。
「しばらく此処を頼みたい。俺は周囲を確認してくる」
「了解です」
すぐさま部隊がバタバタと分かれて持ち場へ走った。
土方は紫苑を馬に乗せ、軍の進路ではない山の中を駆け出した。
「紫苑、大丈夫か?」
「はいー、問題ないです」
相変わらず頭の動きは鈍いが、動けないほどではない。
取り落すといけないからと、へらりと笑う紫苑を土方の後ろではなく前に乗せた。
土方としては紫苑を連れ歩くのも気が進まなかったが、
まともに戦えない者を本隊に残しておくのも不安だったのだ。
「どうするんですか?」
「他に狙いやすい場所がないか調べる」
新政府軍が進んできた道という事は、
西から此処に来るまでにどんな道や地形があったのかを敵軍の方が把握しているのだと土方は言う。
だから少しでも地形を調べ、伏兵を配置しやすような箇所を見つけておかなければならないらしい。
なるほど、と思った紫苑はただ馬に揺られていた。
紫苑がぼんやりしている間も、土方は道なき道を進み、山を登りながら周囲に目を配らせ、
馬を引き返してはまた走り出して戦略を練っていた。
「すいません、お荷物ですよね」
「……俺はお前を荷物だと思った事は一度もねえ」
申し訳程度に紫苑が呟くが、土方の返答は意外なものだった。
江戸から無理矢理付いてきて、散々迷惑かけて怒られて心配かけた。
だけど土方の声は心からそう思っているような音をしていて、紫苑はそれだけで胸が締め付けれるように嬉しかった。
「……ありがとう、ございます」
「いいから静かにしてろ、舌を噛むぞ」
「……はい」
言葉の割には思いのほか優しい声で、紫苑は小さく微笑んで頷いた。
我が儘で付いてきたのだから、ここは本当に彼の邪魔をしないように静かにしていようと思った。
どかどかと土を蹴る振動が体を揺さぶる。
そして紫苑の背後にはぴったりと寄せられた土方の体温がある。
緊迫した状況ではあるが、包まれている感覚に紫苑は安心感を覚えていた。
――そんな時だった。
周囲に吹いていた風の音が唐突に止んだと思ったら、きん、と耳鳴りがした。
「―――っ」
唐突に悟った。
不思議に思う訳でもなく、緊張を張り巡らしていた訳でもない。
ただ、今だと気付いてしまったのだ。
初めて視たあの光景、紫苑の人生を変える事になったあの先視の瞬間が、ついに来てしまうのだと。
確信だけが、すとんと紫苑の胸に落ちた。
「紫苑?」
不意に明後日の方向を見つめている紫苑を、背後の土方が覗き込む。
だけど紫苑の耳にはもう届かない。
付近にある草叢の奥が音を立てるよりも先に、紫苑の体は自然と動いていた。
正確に、土方の体を覆い隠すように紫苑は身を乗り出して両手を広げた。
「――土方さん!!」
――ずっと、この瞬間の為に生きていた。
変わらないかもしれない、だけど変えたかった。
土方さんが血の海に落ちて絶命する姿を、何度夢に見ただろう。
自分はどうなっても構わない、だけど土方さんには生きていて欲しかった。
ずっと、土方さんを狙う弾を受ける為だけに。
それが紫苑の生きてきた意味だった。
(だから、ごめんなさい)
約束を守れなくて、ごめんなさい。
後悔はない、元からこれが自分の本懐だったから。
だけど、ただ一つの気がかりだけが頭をかすめる。
――貴方を守りたいのに、結局貴方の心を傷付けてしまう気がするから。
「―――っ!!」
「な……っ!?!?」
視界を遮る紫苑の体、それから近くで聞こえた発砲音。
銃弾が人間の肉に埋まった時の特有の音。
気が付けば被弾の衝撃で紫苑ごと土方の体は放り出され、地面に叩きつけられる。
「当たってないぞ!」
「やれ!相手は一人だ!」
潜んでいた敵兵が次々に立ち上がる。
瞬時に状況を理解した土方は刀を抜いた。
「っ……!!紫苑!!」
土方の両手は抱えていた紫苑の血で濡れ、彼女は落馬したままピクリとも動かない。
「くそ!紫苑!……紫苑っ!!」
叫びながら土方は羅刹となり、紫苑を背に敵に飛びかかる。
敵兵達にとっても、この狙撃は計画されたものではないのだろう。
ここを通った土方の馬を偶然に見つけた、そんな様子だった。
戦略などは読み取れず、羅刹化した土方の刀で兵達は全てあっけなく地に沈んだ。
周囲が静かになると、土方は紫苑に駆け寄って身を起こす。
「紫苑!!」
どうやら銀の銃弾だったのだろう、腹部に広がる鮮血が止まらない。
応急処置として柔らかい布で傷口を押さえ付けるが、白い布があっという間に赤に染まる。
少し前まで動いていた顔面からは既に血の気が失われている。
「っ、紗矢!!」
「…………っ」
(土方さんが、私の名前を呼んでる……)
本当の名を呼ばれた気がして、紗矢の意識がふわりと浮上する。
重い瞼を押し上げれば、霞んだ視界でも必死に此方を覗き込んでくる人を見つけた。
土方さんが生きている。
(よかった……)
元々回らなかった思考が余計に何も考えられない。
撃たれただろう傷口だって、もはや痛みすら感じない。
だけどいいんだ、これが自分の役目だったのだから。
「……っ!」
言葉なんて到底発せられなかったから、小さく笑えば。
目の前の想い人はかつてないほどその綺麗な顔を歪めた。
土方は脇差を抜くと躊躇わずに自身の腕を切り裂いた。
ボタボタと垂れる血を口に含み、そのまま紗矢の唇を塞ぐ。
ほとんど意識を失っていた紗矢は舌に触れた温かさと甘い液体を知らず受け入れていたが、
それが土方の血だという事に気付いて慌てた。
「っ!……い、や!」
これは飲みたくない。狂いたくない。
せめて正気のまま死なせて欲しい。
紗矢が弱々しい力で引き剥がそうとするが、何の抵抗にもならない。
「いいから飲め!飲まねぇと五稜郭までもたねえ!」
「や…、だ……!」
拒絶したい心と、回復する為の糧を欲している体がせめぎ合い、土方に伸ばした掌が震えた。
だが土方はさらに拘束の力を強めて、どこにも逃げ場なんてなかった。
「頼むから!」
「っ、……!」
吐き戻そうとする紗矢と、流し込もうとする土方の、お互いの唇から赤色が零れる。
それでも口付けはやまない。
耐え切れずに嚥下すると、さらに血を含んだ唇に塞がれて飲まされる。
望んでいないのに体は勝手に土方の血を受け入れた。
血が紗矢の傷を僅かでも回復させたのだろうか、意識がさっきよりも鮮明になった。
「は、あ……っ」
「――狂っていい……俺は、お前になら殺されてもいい」
(私は、嫌だ)
折角貴方を守れたのに、それで殺してしまったら意味がない。
狂ってまで生き残りたくなんてない。
いっそのこと、殺して欲しいのに。
「だから、死ぬな……っ!」
彼の絞り出した叫び声を聞きながら、紗矢の思考が麻痺する。
――ああ、血が欲しい。
震える手を伸ばし、目の前の愛しい人の首を引き寄せる。
なんて美味しそうな肌の色なんだろう。
この人の血が欲しい。
嬉しくて、愉しくて、彼の唇から零れている赤い液体を舐めてみた。
やっぱり美味しかった。
「……もういいんだ……お前がやりたいように生きろ」
頬を撫でられて、思わず笑った。
どうして愉しいのかはわからない、だけど愉しくて笑わずにはいられない。
彼が喋るたびに動く喉仏がまるで熟れた果実のようで、
その隣に流れているだろう脈打つ血流がたまらなく欲しくなって。
欲望のままに噛み付いた。
「……っ」
本当はそのまま歯を突き刺して、その間から溢れてくる赤い水を飲み干したかったのに、できなかった。
歯が皮膚を突き破る前に、紗矢の意識は遠のいた。
「っ……辛うじて生きてる、か……」
脱力した紗矢を抱き寄せて、土方は紗矢の呼吸を確認する。
命が尽きた訳ではなく、ただ意識を失っただけなのだとわかり、土方は深い深い溜息をついた。
新政府軍を残虐に斬っていった時のような虚ろな目で笑っていた紗矢の頬をなぞる。
もう、戻らないかもしれない。
だが殺されてもいいと言ったのは本気だった。
「もう、楽になっていいんだ……」
撃たれた瞬間、彼女は笑っていた。
きっと知っていたのだろう。
ずっと、土方の身代わりになって死ぬ気でいたのかもしれない。
「……っ」
ポタリと、透明な液体が紗矢の頬に落ちた。
気が付けば、泣いていた。
悔しくて歯痒くて、さらに怒りと愛おしさがぐちゃぐちゃになって、目から何かが流れている。
言いたい事は山ほどある。
どうして庇ったりしたんだと、どうして自分の命を投げ出そうとしたのか。
いつから知っていたのか、いつからこうする事を決意していたのか。
怒りたくても、もう怒れないのかもしれない。
どこまでいっても彼女は土方の為に、様々なものを捨てて生きていた。
そして最後は、その生すら捨てるつもりだったのだろう。
どんな事をしても互いに生き残る事を約束したのに。
「頼むから……俺を置いて逝くな……っ!」
勝手に満足して、勝手に死ぬなど自分勝手もいいところだ。
残されたこっちはたまったもんじゃない。
狂気に呑まれ、壊れたとしても構わない。
どんな形であれ生きて欲しい。
それで彼女に斬られ殺されるなら、それでもいいとすら思った。
紗矢は紗矢で、好きに生きた結果がこれだったのだろうが。
(生きて欲しいのはお互い様なんだよ、紗矢……っ)
悔しさを吐き出すように、強く強く抱き締めた。
ふと、頬をかすめる感触に顔を上げる。
薄紅色の花びらが、ひらひらと舞うように降ってくる。
紫苑が好きで、いつも仲間達と酒を飲み交わしながら楽しそうに眺めていた、あの。
短命の桜が、満開に美しく咲いていた。
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ひそかに伊庭さんの戦死回避してます。