―――唇に何かが触れた気がした。
目はどうしても開ける事ができなかったけど、想い人の声は聞き逃さなかった。

真っ暗な海にいるような感覚の中で、たった一つの眩しい光。
何よりも、誰よりも大切な人。
その揺るぎない声が聞こえるだけで安心して、強い眼差しに見惚れてしまう。
だけど時折悲しそうに細められた目を見ると胸が痛くなる。
これが切ないという気持ちなんだと知ったのはいつの頃だっただろうか。

ふわふわと闇に漂う思考がまとまらない。
長い、長い夢を見ているよう。

目の前に現れるのは愛しくて、見つめているだけで泣きたいくらい苦しい気持ちになる人。
強くて、厳しくて、だけど不器用で優しい人。
随分と怒らせて、心配させてしまった。

それから大切な大切な仲間達。
色んな人の顔が次々と浮かんで、皆が自分に笑っている。
浅葱色の羽織をまとい、時代を駆け抜けていった人達。
彼らはみんな、私の名前を呼んで受け入れて、隣に並ばせてくれた。

いつまでも一緒にいたくて、生きていて欲しくて、必死で追いかけた。
走りすぎて止められる事もあったけど、みんな仕方ないなって顔をしてくれた。

辛い事ばかりだった気がする、悔しい事も数えきれない程あった。
だけど、振り返れば悪くない人生だったかもしれないと思う。
たくさんの人を殺しておいてそんな事思ってはいけないのかもしれないけど、
好き勝手生きて、自分を貫いて、そしてやりきった。
武士としては半人前だったけど、自分の命に意味があったのならそれでいい。

私は、大切な人全てを守りたかった。

きっと、あの人は怒るのだろう。
悲しんで、苦しんで、また私の命を背負わせてしまうのかもしれない。

だから、ごめんなさい。
最初から最後まで私は貴方の言う事を聞けなかった。

貴方に生きて欲しい、この願いはたぶん私の最大の我が儘なのだろう。
貴方は、何があってもお互いに生き残ろうと言ってくれたのに。
約束を破って、我が儘を貫いて、ごめんなさい。

もし私が運良く生き残れたとしたら、今度こそ少しは貴方の言う事を聞こうと思う。
少しは、だけど。

ああ、貴方の顔が見たい。
どんな逆境でも風に揺れ続ける美しい黒髪が目に浮かぶ。
吸い込まれそうな深い瞳を見つめたい、そしてできるなら笑ってほしい。

貴方が振り向いてくれるだけで、私の罪さえも許されたような気になるから。
貴方が守れるなら、私はどんな事だってできる。

ずっと、いつまでも、永遠に、私はあの人を見つめる事を止められない。


だから、生きて――――






薄桜 十






「―――?」

ふいに意識が浮上した。
さっきまで誰かを思い、追いかけていたはずなのに、夢のような何かが霧散した。
自分は何をしていたのか、どうして此処にいるのだろう。

紫苑さん!目が覚めたんですね……!」
「……ち、づる?」

返事の声は思ったほど出なかった。
千鶴が目に涙を溜めて此方を見つめているのだが、紫苑には何が起こったのかすぐには理解できない。

はっきりしてきた視界でぐるりと見渡せば、どうやらここは何処かの洋室で。
そして自分は寝台に寝かされているようだった。

「覚えていますか?撃たれたそうで、土方さんが五稜郭まで運んで来られたんですよ」

千鶴の説明でようやく現実を思い出した。
あの先視の瞬間を迎えて、撃たれた衝撃で馬から投げ出された所ぐらいまでは記憶がある。

「……生きてる……」

そうだ、自分はあの時自らの命の事など一切考えていなかった。
確かめるように腹部に触れれば全身に痛みが広がって思わず目を閉じる。
本当に撃たれて、その上で自分はまだここにいるのだ。

「危険な状態だったから……本当に、よかったです……っ」

自分でも助からないくらいの怪我だと薄々感じていた。
だけど此処にいるという事は様々な要因があって、それから必死で助けてくれた人達のおかげなのだろう。
きっと千鶴には相当な心配をかけてしまった事だろう。

「……うん……ありがとう」

生きていたという現状に呆然としつつも、
泣き止まない千鶴の為にと紫苑は声を詰まらせながらも言葉を発した。

「土方さんは……?」
「……まだ戦っています。だけど成功すれば最後の戦になるかもしれないと、言っていました」
「…………」

あれからどれだけの日にちが経ったのか。
千鶴の言葉から予想すれば、まだ全軍で新政府軍を乙部まで押し返している途中なのだろう。
自分の傷よりも土方の方が心配な紫苑は、戦の事ばかりが気にかかる。

いくら最悪の先視を回避したからといって、完全にもう安全だとは言えないのだ。
紫苑は一度確かめるように上体を起こしてみるが、
酷い傷の痛みと体の脱力感で力が入らず布団に引き戻される。

紫苑さん!?」
「動けない、よね……やっぱり……」
「何を言っているんですか!本当に大怪我だったんです!手術が成功しても、ずっと意識も戻らなくて……!」
「……うん、ごめん」

確認をしたかっただけで、本当に動こうと思った訳ではない。
だけど千鶴は今まで見た事もない形相で、また目に涙を浮かべて怒ってしまった。

「さすがに、大人しくしてる……もう、無茶はしない」

ここで無理をしたら皆の苦労が水の泡なのだろう。
恩を仇で返す事になりかねないと、紫苑は素直に布団にもぐった。

「土方さんは絶対に帰ってくると仰っていました。だから紫苑さんは、此処で待っていてください」
「……うん」
「お医者様を呼んできます」

意識が戻った事を報告しに行ってきますと、千鶴は部屋を後にした。
途端に静かになってしまい、ぼんやりと呆けたように天井を見つめる。

死ぬつもりでいたせいで、生きているという事実が呑み込みきれない。
そして本懐を遂げてしまった今、本当に紫苑の役目は終わってしまったような気もしていて。
土方軍に混ざって一緒に戦えない以上、紫苑にできるのはもう待っている事ぐらいしかないのだろう。
不思議とその事実に不満はなかった、むしろ素直に納得している自分がいる。

(土方さん、怒ってるだろうな……)

怒っているとか、そういう問題ではない事もわかりきっている。
きっと苦しめて、傷付けて、悲しませた。

(どんな言葉もちゃんと聞くから……生きて)

せっかく生かしてもらった命だ、今度こそ大事にしなければならないのだろう。
そして、土方の恨み言を聞く事が紫苑の罰なのだろうと思った。

千鶴に呼ばれた軍医がやって来ると、一通りの診察をして帰って行った。
医者達が何だか気まずそうな複雑そうな顔をしていて、紫苑が女だと知られたのだと気付いた。
治療をするなら上衣は全て取り去られるのだから仕方ない事だと思う。

だけど五稜郭内でもっと騒ぎになっているかと思えば、そうでもないようで。
どうやら千鶴や山崎が口止めに回ってくれたようで、軍医や幹部以外、
つまりは一般の兵士達までには知られていないらしい。
紫苑が眠っている間に、随分と根回しをしてくれたものだ。

「気分はどうだ?」

入れ替わりに入ってきたのは山崎だった。
相変わらずの生真面目さで食い入るように観察され体調を聞かれた。

「死にかけたわりには、元気みたいです」
「……そのようだ」

たどたどしく返事をするが山崎はじっと此方を見つめてくる。

「効果があったという事だろうか」
「……?」

何の事だろうと首を傾げていると、山崎は寝台の傍の棚に置かれた水差しに視線を落とす。
治療の為に水をたくさん飲んで下さいと言われていたが。

そこで、何かを思い出しかけた。

「水……誰かが水の事、言ってた……あれは、風間さん…?」

正直紫苑はほとんど覚えていないが、撃たれた後に風間がいたような気がする。
そして戦ったりとかはせず、何だか助けてくれたような。

考えを巡らせていると山崎が頷き、その説明を詳しくしてくれた。
清浄な水を飲ませるようにと土方に言われ、山崎は何と五稜郭から東にある恵山まで行ったそうだ。
恵山は霊山とされているらしく、そこから湧いた水なら神聖だろうという話を現地の人に聞き、
ざわざわ何日もかけて水を汲みに行ってくれたのだという。

「そっか……だから羅刹の感覚がないんだ……」

すっきりしていて忘れていたが、自分は羅刹だったはずだ。
太陽が苦手で、衝動がない時でもどこか神経は尖っていて、野性のようなものがあった。
だけど今は部屋に差し込む光に苦しさはあまり感じないし、何より自分は普通に皆と話せている。

そう、少し前まで紫苑の思考はもっと靄がかかっていて、狂いかけていたはずだ。

「効果があったならまた汲んでこよう。雪村君や、他の羅刹にも効くという事だろう」
「……すいません」
「問題ない。それが俺の任務だ」

山崎は小さく笑った。

何だか不思議な気分だった。
羅刹を薄める方法をあの風間が伝えた事がまず驚きだった。
そして土方もまた、確証はなかっただろうが信じて山崎に水の捜索を頼んだ。

紫苑はあの時意識を失っていたが、そもそも風間と土方が対峙して何もなかった事が奇跡的で。
もしかしたら悪態をつきながらも紫苑と、土方を認めてくれたのだろうか。
気まぐれか何なのかはわからないが、記憶の中の風間はどうやら笑っているから、そうなのかもしれない。

ちゃんと会ってお礼がしたいが、何となくもう会えないような気もした。
元々戦に乗り気ではなかったから、彼はきっと鬼の一族の元へ帰って行くのだろう。
だから少しだけ残念に思った。




それから、五稜郭での紫苑の日々は静かに過ぎていった。
正確には静かではなかったが、戦の忙しなさに比べたら天と地の差だった。

早く快復したいと思ってはいるものの、嘘偽りなく死にかけた体だったようで。
本当に寝台から身動きすることもままならない。
意識が覚めた直後に起き上がろうとしていた自分は本当に愚かだったと反省した。

動けない紫苑に代わり、献身的に身の回りの世話をしてくれたのは千鶴だった。
他の負傷兵の手当てに回りながらも、紫苑の事も随分気にかけてもらった。

忙しくない日は食事中の介助をしてもらったりしながら、とりとめのない事を話して笑った。
それ以外はずっと、部屋の外の景色を眺めていた。
兵達が動いている気配は感じているが、発砲音や剣戟の音もしない穏やかな空間で、
青い空に流れていく雲を見つめながら仲間達の事に思いを馳せる。

戦はどうなっただろうか、誰も酷い怪我をしていないだろうか。
紫苑が守ったあの人は、今も無事でいるだろうか。

千鶴や山崎が定期的に戦の状況を教えてくれる。
今の所は優勢のまま作戦が進んでいるらしいが、その場にはいないので不安になる。

ただ待つ、というのは思ったより辛いのだという事を知った。

無理をすれば動けるのかもしれないが、
それをしてしまったらまた色んな人を悲しませてしまうのだろうなと思ったら、できなかった。

「……千鶴は、強いね」
「え……?」

ふいに口を開いたものだから、紫苑の体を拭いてくれる千鶴が首を傾げた。

「いつも総司とか、みんなの帰りを待ち続けてるから凄いなって……
待つって、こんなにも不安で落ち着かないものなんだね」

戦の時、千鶴はいつも拠点待機か後方支援が多い。
紫苑達が帰ると「おかえりなさい」と気丈に笑っていたが、それは実はとても難しい事なのではないかと気付いた。

「……私も、平気ではないですよ」

千鶴はそんな事はないと首を振る。

「誰かが怪我していないか、危険な目に遭っていないか、いつも不安です。
でも私は戦う事はできないから……私にできる事をやろうって思っているだけです」
「……そう思えるのが凄いよ」

苦笑する千鶴は少し悲しそうで、だけどとても美しい顔をしていた。
きっと色んな感情を抱えながら、それでも表に出さずじっと耐えて、できる事を探して動いている。
そして無事に帰って来た者に笑みを向ける、それはきっと簡単な事ではない。
それこそが彼女の強さなのだと思った。

「私は、たぶん弱いから。待っているのが怖くて、だから飛び込んで行くんだよね」
「……紫苑さんも強いですよ。女の子で戦えるなんて、普通ならできないです」

前線に出て戦える事も凄い事ですと彼女は答えた。

「だけど、今はそれもできないから……不安ばかり感じてる」
「……そうですね」

苦笑する千鶴と二人、空を見上げてそれぞれの大切な人を思う。
きっと、不安なのは誰だって一緒なのだろう。

「前線でもそうじゃなくても、できる事をやるしかないんだね……」

ポツリと呟けば、千鶴は小さく笑ってくれた。
今の紫苑にできる事は、早く動けるようになる事だけだった。











さらに数日が経ち、ようやく起き上がれるようになった頃。
まだ寝台から離れる事はできないが、確実になまってしまった体をどうにかしたくて筋肉を動かしていると、
千鶴に見つかって怒られるというのが日常になった。
毎日何かしら活動して刀を振るっていた日々を思うと、こんなにも安静にしていた事は今までにない。
だから否が応にも体がうずうずしてしまうのだ。

だけど今日は、寝台から抜け出している所を見られても咎められなかった。
どこか声を弾ませてやって来た千鶴の手には、一通の文が握られている。

「私宛て、に?」
「はい。土方さんから預かったそうです」

紫苑の意識が戻ったという報告はすぐに土方に伝えられたらしい。
数日が経ち、その伝令兵が土方からの手紙を受け取って帰って来たそうだ。

「土方さんも喜んでくれているんですね」
「…………」

言付け等ではなく直接文章で、という所に千鶴の方が乙女心をくすぐられているようだ。
確かに気持ちを通じ合わせた想い人から文をもらえば普通は嬉しいのだろうが、
紫苑にとっては何と書いてあるのかいささか不安だった。

「読まないんですか?」
「……うーん」

心配してくれていたのは確かだろうが、紫苑は彼との約束を破ったのだ。
恨み言や、いつものように小言が書いてあったとしてもおかしくはない。

(最悪、見放されるという事も……)

過去に、近藤を守ったものの切腹を言い渡された事を思い出し、恐怖すら感じた。

読まない、という選択肢はない。
どんな言葉だって受けるつもりではいたのだが。
読みたい、だけど読むのが怖い。

そんな気持ちを知ってか知らずか、千鶴はくすりと笑いながら「水を持って来ますね」と言って部屋を出て行った。
気を遣われた事がなんだか恥ずかしくて、紫苑は心の準備をすると、緊張しながら一思いに手紙を開いた。

「…………」

見慣れた達筆な文章はとても簡潔だった。
前置きなどもなく、たった一言。

"そこから一歩も動くなよ"と、書いてあるだけだった。

「……ははっ」

思わず吹き出してしまった。
此方の性格をわかりきっているのだと言わんばかりだ。
怪我を押して飛び出しかねない紫苑への牽制。

命令書のように淡々とした言葉だけど、紫苑の事を気遣ってくれているのが読み取れて、
彼の変わらない態度が目に浮かぶようで笑ってしまった。

「……っ」

笑えるのに、涙が止まらない。

(裏切ったのは私なのに……)

生きている彼がこの手紙の向こうにいる、それだけで泣きたいぐらい嬉しいのに。
怒ったり恨み言よりも先に、最初から最後まで自分を気遣ってくれる彼が愛しくて、申し訳なくて。

(ああ、私が好きになった人だ)

それでも許してくれるなんて、本当に不器用な人だ。
もっと言いたい事はたくさんあるはずなのに呑み込んでしまう人。

好きで好きで仕方ない気持ちが込み上がって溢れていく。
ぽたりと、大事な文に染みが落ちた。

(守らない訳には、いかないよね)

もう彼を裏切ってはいけないのだ。
今度こそ、約束を守ろうと決めた。

しばらくして様子を見に来た千鶴は紫苑が泣いている事に驚いたが、
笑っていると安心したのか、内容を訊ねる事もなく微笑んだ。










紫苑は無茶をやめた。

帰ってくる事を信じて待つ、それはとても不安ではあったが、
初めての"待つ"という任務をしっかり全うする事を自分に課した。

いつか戦が終わり、彼らが五稜郭に凱旋した時に、せめて出迎えられるくらいには快復していたくて、
紫苑は土方や仲間達の帰りを静かに待つ日々を過ごした。

もしかしたら何か視えるかもと、意識を集中させてみたりしたが何も視えなかった。
だけど時折、自身の不安が悪夢として現れて、恐怖に目を覚ます。
先視の感覚ではないからただの夢だと自分に言い聞かせても、どうしようもなく不安になる事もあった。

怯えながら傷を癒し、山崎が運んでくれた水を飲み、千鶴に支えられながら少しずつ動く練習をして。
ひたすらに、青い空を見つめた。

太陽がいくつも巡り、月夜の静寂を噛み締めたある日。
待ち望んでいた報告が五稜郭に轟いた。


「勝った……?」
「はい!新政府軍を撤退させる事に成功したそうです!」

飛び込んできた千鶴を、紫苑は呆然と見返した。

周囲が突然騒がしくなったなと思っていた矢先の朗報だった。
報告の伝令兵が一足先に戻って来たのだろう。

「戦が、終わる……?」
「ひとまずはそうなるだろうって話です」
「…………」

あれだけ待ち望んでいた知らせなのに、信じられないという思いが強い。
ずっと逆賊だと言われて追われていた立場だけに、そんな奇跡のような勝利を本当に迎えられたのだろうか。

(もう、戦わなくてもいいという事?)

追われて、追いかけて、逃げて、殺して。
そんな日々から解放される、という事なのだろうか。

何度聞いても夢やただの願望などではないようで。
部屋の外の異様な盛り上がりが、これが現実だという事を教えてくる。

「……それで、みんなは?」
「新選組で誰かが大きな怪我をしたとは聞いていないです」
「そっか……」

不安か嬉しさか、飛び上がって喜んでいいのかまだわからなくて、抑え込んだ感情が漏れるように紫苑の掌が震える。

(誰も、死んでない……)

紫苑にとっては、それが全てだった。
例えば紫苑の大切な誰かが死んで、その代わりに戦が終わったとしても紫苑は喜べない。
ましてや土方がそうなってしまったなら、きっと紫苑は命を絶つ。

だけど誰も大怪我をせず、戦が勝利で終わる。
こんな、紫苑にとって一番良い報告を聞ける事が信じられない。

「数日後には皆さん戻って来られるそうです」
「……うん」

今、この場で崩れ落ちそうになる体を何とか支える。
熱くなる喉をやり過ごし、泣いてしまわないように耐えた。
笑って出迎えたいと思っていたのだから。
紫苑はぐっと堪えて、窓の外を見上げた。

仲間達の帰りを待つ数日間は、長いようであっという間だった。
既に祝賀の空気に包まれた五稜郭で、紫苑は寝台からゆっくりと立ち上がる。

両足でしっかりと地面に踏ん張り、銃弾を受け止めた腹部をさすってみる。
少しだけ痛むが、今までの怪我に比べたら何て事はない。

体力は格段に落ちていて、五稜郭内を歩くだけで疲労を感じた。
隣の千鶴が支えようかどうしようかという顔をしているので、笑ってそれを制する。
今日ばかりは自分の足だけで外に出たかった。

久しぶりに浴びる、直接の太陽光。
眩しさに目を細めたが、痛みや羅刹特有の苦しさは感じない。
部屋から眺めていた、澄んだ青い空が一面に広がり、風は紫苑の頬をくすぐる。

(ああ、生きてる……)

心からそう思った。
あの時は死ぬつもりでいたけれど、今は生かされた命を噛みしめている。

出迎えの声援がそこかしこから上がり、戦に赴いていた兵達が帰ってくる。
疲れを蓄積させた顔をしながら、だけど誇らしげに歩いている歩兵達。

大勢の兵達が紫苑の傍を通り過ぎていくと、見知った顔を見つけた。
大鳥もまた、紫苑の姿を捉えると口角を上げて此方へ近付いてくる。

「…………」

何も言いはしない、だけど紫苑が此処にいる理由を全て察しているのだろう。
くすりと笑い、紫苑を導くように背後に視線を送る。

大鳥の目線を辿って隊列の奥を見遣って、息を呑んだ。
紫苑の仲間達が皆、確かな足取りで帰ってくる姿が目に飛び込んできた。

「……っ」

皆、今となっては洋装の姿をしているのに。
この時だけは、あの頃のような浅葱色の隊服を身に纏っているようだった。

それぞれが様々な理由で新選組に入り、一つの集団となった。
怖れるものは何もない、そんな顔で京を闊歩していたあの頃を思い出す。

眩しくて、嬉しくて、紫苑の両目からは既に涙が溢れていた。
笑って出迎えるつもりだったのに、そんな事できる訳がなかった。

「みんな、……っ!」

泣いている紫苑を見つけて、仲間達が苦笑している。
結局また泣くのか、そんな呆れながらも優しい言葉が聞こえてくるようで。

「なんだ、生きてたんだ」
「総司……」

いつもと変わらない、飄々とした態度の沖田がそんな事を言う。
憎まれ口だけど、本心ではそんな事思っていない事はもう知っている。

「結構しぶといんだよね、君も。僕も」
「……うん」
「今はそれでよかったと……少しは思う」

彼の言葉は何に対するものなんだろうか。
死を覚悟した戦いだってあったし、それだけでなく病気の事とか、
近藤の事とか、様々な困難を含んでいるのだろう。
だけど悲嘆に暮れず、少しずつでも前向きに生きられているような声色に紫苑は安堵する。
沖田は笑って、紫苑の後ろにいた千鶴の元へ向かった。

千鶴もまた、気丈に振る舞っていたけど不安だったのだろう。
感極まったように涙を流し、だけど綺麗に微笑んでいた。

視線を正面に戻せば、いつもふざけ合っていた三人がそこにいる。
一度はバラバラになって、離隊もして、そのたびに彼らを見送るのは辛かった。
死を予感して、未来を変えようと必死で藻掻いたりもした。
だけど今は並んで紫苑の前にいる。

「……おかえり」

そう言えば、三人の声が揃った「ただいま」が返って来る。
その返事だけで紫苑の心は救われた。

真っ先に、藤堂が紫苑に駆け寄って来る。

「怪我は大丈夫なのか?」
「うん、何とか……」
「撃たれたって聞いたから心配したんだぞ!」
「うん……」

顔を覗き込まれて苦笑していると。

「本当に危なっかしい奴だなー、お前は」
「うわ!」

永倉が藤堂ごと紫苑の肩を抱き寄せて、がしがしと髪を掻き混ぜられる。
その遠慮のなさが嬉しくて小さく笑っていると、同じく閉じ込められていた藤堂が不満の声を上げた。

「ちょっと新八っつぁん!紫苑怪我してんだから加減しろよ!」
「おお、悪い悪い!」

そう言って笑いながらも永倉は手を止めない。
紫苑のすぐ頭上で二人が言い合っている、その煩さが懐かしくて紫苑は頬を緩めた。

「俺達が無事でも、お前に何かあったら意味がないんだぞ?わかってるのか?」
「左之さん……ごめん」

温かいものでも見るような眼差しでいた原田が、永倉の手をどかして紫苑の頭を撫でた。
正しく諭されるような声に素直に謝ると、柔らかい笑みが返ってくる。
ほとんどもみくちゃ状態だったが、紫苑は嬉しかった。

気付けば、原田の背後には斎藤も立っている。

「あんたが俺達を此処まで連れてきたんだ。あんたが生きていてもらわないと困る」
「……うん」

返事をすれば、静かな笑みが返ってきた。
死にに行こうとした時のような彼はもうそこにいなかった。

(ああ、みんな温かい)

紫苑が皆を出迎えているはずなのに、逆に紫苑の方が心配されている。

優しくて、温かい仲間達だった。
だから大切で、失い難くて、守りたかったんだ。

「みんな……生きて帰って来てくれて、ありがとう……っ」

仲間達に囲まれて涙声で呟けば、照れくさそうな声が聞こえた。

生きて帰って来て、彼らは笑ってくれている。
自分は彼らの役に立てたのだろうか、そうであったならいいなと思った。

「泣くのは早いんじゃないか?」
「、え…っ?」

原田に笑われ顔を上げれば、皆が示し合わせたようにその場を離れる。
どういう事かと思うのと同時、視線の先にずっと追い求めていた人を見つけた。

その瞬間、まるで世界には彼しかいないのではないかと思えるくらいに他のものが見えなくなった。
どんな闇だって打ち払ってしまうような、紫苑にとっては光の人。

戦の血や泥で汚れてはいるけれど、黒い軍服と黒い艶やかな髪が風に揺れて美しい。
強く強く、此方を見つめる深い色の瞳。

(土方さん……)

また会えたら何と言おうか考えていた。

約束を破ってごめんなさい。
裏切ってごめんなさい。
黙っていてごめんなさい。
それとも、今度こそ私は嫌われたのでしょうか。

だけど言葉が出てこない。
彼が生きてそこに立っているだけで涙が溢れて止まらない。

「っ……!」

痛い、喉と胸が痛い。
自分の全てが彼を好きだと叫んでいる。

ふらふらと歩み寄れば、怒ったような顔付きの土方が此方へ来る。

一瞬、躊躇った。
もしかしたら怒られるのかもしれないと。
だけど身を引こうとした分、手を掴まれて抱きしめられた。

熱い体温を感じてしまったらもう駄目だった。
強い腕の中で、ただただ泣きじゃくった。

「ひ、じかたさ……っ!」
「っ……!」

彼もまた、腕の力を強めるだけで何も言わなかった。
それでもすり寄せるように包み込まれて、彼の感情が伝わってくるようで。
それが余計に涙となって土方の軍服を濡らす。

「約束……、俺は守ったぞ」

ようやく絞り出された声に、紫苑は我を忘れて泣いた。

「っっ……!ごめんなさい……、ごめんなさい!」

言いたい事がたくさんあっただろうに、それを呑み込んだような全てを含ませたような言葉。
そんな思いをさせてごめんなさい、紫苑は何度も何度もそれだけを叫んだ。

「……っ、生きていてくれたなら、それでいい……!」

土方の泣いているような声は紫苑だけに聞こえた。


蒼く澄み渡る空に、紫苑の泣き声がいつまでも木霊した。











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