覆い尽くされていた雪が溶け、春が訪れ、新緑が芽吹いていく大地。
爽やかな陽気を感じながら、整備された土を踏む。

急ぐ事もない、ゆったりと目的の人物を見つける散歩はさながら宝探しのような感覚だ。

商店が並ぶ賑やかな街道から離れたこの辺りは一面に大きな畑が広がっていて、
農作業をしている住民に軽く挨拶をしながら歩く。

静かだな、と土方はしみじみと感じていた。
土を踏む足音だけがする世界で、時折木霊する鳥の囀り。
穏やかに流れていく時間を噛みしめると自然と表情が緩む。

まばらに建つ家々も抜けた先まで行くとようやくといった感じか、
子供の掛け声だったり、木同士がかち合うような音が少しずつ大きくなってくる。

「えぃや!」
「動く前に剣先が揺れてるよ。それじゃどこに打とうとしてるのか相手に読まれるよ」
「くそー!」

雑草が生えるだけの空き地で、近所の子供達が竹刀を振り回して仕合の真似事をしている。
そして、傍にある大きな石に腰掛けながら眺めて笑っている女を見つけた。

「此処にいたのか」
「歳さん!おかえりなさい」

気配に気付いた紗矢が振り返って、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。






薄桜 十一






戦は終わった。

厳密に言うと終わった訳ではないが、蝦夷から新政府軍を追い出した事により、
闇雲に戦力を消費させる事も得策ではないと敵側も判断したのか、ひとまず停戦の提案がなされたのだ。

それによるいくつかの条件はあったが、血で血を洗うような争いを回避できるならと箱館政府もそれを呑んだ形だった。
特に箱館政府は疲弊していた。
もう一度全力で襲撃されたら今度は防衛できるかわからない、という所だったのだ。

もちろん水面下での睨みあいは続いているだろうし、ひとつの独立した国として認められた訳でもないが、
話し合いができるまで進展した事の方が奇跡だった。

なので、今しばらくは戦う必要がなくなったのだ。
兵士達は諸手を挙げて喜んだ。

そして強固な兵士と高い士気を保ち続けてくれた土方は特に褒め称えられた。
彼の軍は強かった。
あれだけの激しい戦闘でも、彼の軍だけは一度も崩れる事はなかったのだ。

だけど、土方は表舞台から姿を消す事を決めた。
正式な役職も退き、箱館政府の重役になる事を辞退してしまった。
戦後の新しい組織にも新選組の名前は入らなかった。

これには皆が驚き、説得する人もいたが、彼は「戦うだけの新選組の役目は終わった」と言って頑として譲らなかった。
特に島田あたりが新選組は解散なのかと泣きついたが、
「名はなくとも俺達は死ぬまで新選組だ。それだけでいい」と土方は告げた。

新選組は象徴なのだという。
皆から恐れられるだけの破落戸集団ではなく、武士を志す者の心の道標にしたいと、彼は言った。

紫苑もまた、表舞台から新選組の名前がなくなるのは寂しかったが、
きっと彼は"新選組"という願いの塊を、少し休ませてあげたいのだろうなと紫苑は思った。
これまでの戦いで何度も潰されそうになって、局長までいなくなって、滅びかけた。
だけどそのたびに付け焼刃的に修復させながら、無理矢理ここまで引き摺ってきた。

戦に一段落つき、この先話し合いで新政府軍との折り合いをつけていくのなら、
戦うだけの集団が存在していると無用な火種を生むかもしれないという判断もあるのだろう。
そして局長と作り上げた傷だらけの志を、大事に心に仕舞いたいのかもしれない、そう思った。
だから紫苑は、彼の決定に異は唱えなかった。

確かに"新選組"はもう、組織の形ではない。
あれは、自分達の希望の道標。

だから目の前に存在していなくても、紫苑の心の中にはずっとあり続ける。
彼の言ったように、死ぬまで、いやきっと死んだ後でも自分は新選組の一部なんだと思っているから。
だから、それでいいのだろう。



彼は今、要職には就いていないが、変わらず五稜郭には出向している。
役職に名を連ねていないだけで、五稜郭で戦略の相談役のような形だったり兵達の指導など、裏方の仕事をしている。

だけど、それでも彼は土方歳三で。
役がなくとも兵達や幹部達に頼りにされ、忙しい毎日を過ごしているという。
夕方までには仕事を終えて帰れるだけ、今までよりは楽になっているようだが、
今日はそれよりもさらに早くて紗矢は驚いた。

「あれ、もうそんな時間ですか?」
「いや、切り上げてきた。家にいないから迎えに来た」
「本当ですか、すいません」

わざわざ来てもらったのかと腰を上げれば、土方は「別にいい」と気にしていない様子だった。
着物に付いた埃を払い、子供達にごめんと手を振る。

「今日はちょっと予定があるから、これで終わりね」
「……う、うん」

打ち合いを止めた子供達が途端に怯えた目をするので、どうしてかと振り返って気付く。
帰ってきたばかりの土方は、いつものように軍服の腰に刀が差さっている。
知らない者から見たら、彼の強い目は恐怖に感じるのかもしれない。

「大丈夫だよ、この人はみんなを守ってくれる人だから。
ちょっと見た目怖いけどそんなに怖くないよ、多分」
「…………」

冗談交じりに言えば、警戒の目を向ける子供達に土方が鼻で笑う。

「お前ら、そんな事言ってるがこいつの方が俺よりも何倍もおっかねぇからな。
間違っても怒らせるような事させるなよ」
「な、何ていう事言うんですか!」
「本当の事だろ?」

言い合っているが何だか楽しそうに笑っている二人に、一人の少年が恐る恐る口を開く。

「……その人、紗矢姉ちゃんより強い?」

土方を見遣り、紗矢は眩しいものでも見るように目を細めた。

「強いよ、きっと誰よりも強い」
「えー!じゃあ、今度勝負してよ!俺、強くなりたいんだ!」
「へえ、良い心意気だな。また今度相手してやる」

緊張が解けたのか、子供達は笑って自分達の家に帰って行った。










子供達を見送ると、二人は帰路へと付く。
二人が住み始めた家は五稜郭から少し離れた街はずれの、この空き地からほど近い場所にある。
先の戦で空き家になった所を譲ってもらったらしい。
築年数は少し経っていると思うが敷地の面積は結構あり、二人で住むには十分すぎるほどの広さがある。

紗矢は、男装をやめた。
もちろん腰に大小も差しておらず、今は家で大事に保管してある。

土方に強制されたからではなく、そうなる事が自然なようにすんなりと納得したのだ。
仕方ないとはいえ新選組以外の幹部達には女だと知られてしまったし、
自分の武士としての役目は終わったような気がしたからだ。

とはいえ、いつかまた戦が起こったとしたら紗矢は迷わず土方の隣に並び戦う事を選ぶ気でいる。

(だから土方さんは奉行並を辞めたんだと思うのは、自惚れかな)

土方が変わらず軍を指揮し、前線に立つ位置にい続けるなら、紗矢もそれに付随する。
だからこそ、彼は紗矢をこれ以上無茶はさせないようにと軍を退いたのではないかとも少し思っている。
もちろんそれだけではないだろうが、僅かでも紗矢が理由のひとつになっている気がした。
言葉にはしなかったが、彼はもう戦ってほしくなさそうな目をしていたから。

紗矢は今、二人で暮らしている家で毎日土方の帰りを待っている。
かつて、ただ待っているだけでは彼は帰ってこないと思っていたのに、
朝になると出仕して、夕方になるとちゃんと帰ってくるのだ。
穏やかな日々は不思議でどこかむず痒い感覚だったが、悪くないと思っている自分がいる。

「……人気だな」
「いつの間にか増えちゃったんです」

ただの女のような生活を始めたが、それでも長年鍛えた剣の道は鈍らせたくなかった。
いざという時に戦えなければならないので、時間ができた時にこっそりと素振りなどをしている。

そんな時に、近所の子供達と知り合った。
彼らが木の枝や竹を竹刀のようにして仕合いの真似事をしているのを見つけ、
戯れに助言をして構ってあげたのが最初のきっかけだ。
ただ遊んでいるだけなら何も言わなかったが、負けた子供がとても悔しそうで、
どうやったら勝てるのかを悩んでいる姿が何だか昔の自分のようだったから。

口を出しているうちに、次第に紗矢が子供達の相手をするようになった。
紗矢にとっては全く本気を出していないが子供達は歯が立たない。
だけど愉しく指南してくれる紗矢に子供達は夢中になり、いつしか人数も増えていき、
気が付けば小さな道場のような状態になってしまった。

(そんなつもりはなかったんだけどな)

武道も突き詰めれば人殺しの為の技だ。
だから進んで教える気はなかったのだが、紗矢が教えられるものなんてそれぐらいしかない。
遊びの延長で型を直してあげたり、どう動くと良いかなど教えているうちに人が集まってしまったのだ。

「結局、お前はそういう性分だって事だな」
「あんまり嬉しくないですね、それ」

戦う事をやめても、剣を握らずにはいられないのだろうか。
小さく唸る紗矢だが、土方は笑っている。

「だが、それもいいかもな。
戦がないままでいられるなら、純粋に強さだけを極める武道という事になる。
武士が必要でなくなっても、志だけは伝えていけるかもしれないだろ」
「…………」

人を殺めない、純粋な芸事としての道場。
これからならそういうものも作れるかもしれないだろと土方は言う。

「……そうですね」

それが実現するのはどれくらい先になるのだろう。
わからないけれど、そんな日が来たらいいなと思った。
実現するかもしれない未来を想像して紗矢もまた小さく笑うと、少しだけ軽くなった足取りで帰路を進む。

家に戻ると、既に沖田と千鶴が来ていて驚いた。

「千鶴!もう来てたんだ」
「はい、お手伝いしようと思って早く来させてもらったんですが、急ですみません」
「そんな事ないよ、助かる。ありがとう」

ああ、だから土方が迎えに来たのかと妙に納得してしまった。

今夜は旧知の仲間達がこの家に集まる。
その宴会の食事を作らなければならなかったので、彼女は気を遣って早く来てくれたのだろう。
大体の食事の下拵えは済んでいるが、調理が始まると忙しくなるので人手が増えるのはとても有り難い。

「わざわざ早く来たっていうのにさ、本当に何処ほっつき歩いてたんだろうね」
「……そういう総司は随分くつろいでる事で」
「当たり前でしょ、客人なんだから」

嫌味な言葉に振り返れば、もう既に沖田が縁側で横になっている。
白い目で見下ろしても、彼はどこ吹く風でごろごろとしていて思わず溜息が出る。

(これで千鶴には甘いんだよなぁ)

紗矢が相手だと互いに口喧嘩ばかりだが、沖田は千鶴の前では優しさを見せる。
それは別にいいのだが、考えるのはあの沖田を千鶴がよく手懐けたなという点だ。
だから紗矢は千鶴に少し尊敬の念を覚えている。

気を取り直して着替えを済ませると、さっそく調理に取りかかる。
準備してある品々の用途を伝えると、千鶴は手際よく動いてくれた。

「千鶴達は生まれた家に戻るんだよね?」
「はい。以前に一度立ち寄った事があるんですが、
あの家をそのままにしておくのを少し残念に思っていた所に、沖田さんが行きたいと言ってくれたので……」
「うん、いいと思う」

蝦夷での戦が落ち着き、土方が前線を退いた事で実質的な新選組はなくなり、
今後の身の振り方を仲間達はそれぞれに考えるようになった。
沖田と千鶴は、労咳の治療の為にも千鶴の故郷に落ち着く事を決めたそうだ。

「あのあたりは空気も水も綺麗だから、沖田さんの療養にはいいかなと思うんです」
「そっか……今度こそ、総司には静養してもらわないといけないしね」

いくら変若水で労咳の症状が軽くなったとはいえ、まだ完治はしていない。
そして霊水のおかげで羅刹の作用も薄くなってきたという事は、
ここからは本当に自分の体力だけが勝負となるのだろう。

今までだって無理をせずに静養していてもらいたかったのだが、じっとしていられる状況ではなかった。
それは紗矢も理解していたから何も言わずにはいたが、
これからはようやく自分の体の心配だけしていてもらえるのではないかと思う。
いや、もっと言えば千鶴の為にも完治させて、二人で長く生きてもらいたい。

「何か困った事があったら頼ってね。土方さんだっているし、いつでも助けになるから」
「はい、ありがとうございます。紗矢さんもいつまでも元気でいてくださいね」
「うん、頑張る」

羅刹となり、命を削って力を酷使した紗矢には、あとどれくらいの寿命が残っているのだろう。
わからないが、あまり長くないだろうなとは思っている。
だけどそれは皆も土方もわかっていて、だからこそ毎日を無駄にしないようにして過ごしている。
そもそも戦中であれば、いつ死ぬともわからぬ身だったのだから、
死に対する恐怖感というものは実は今までとそう変わらないので、特別気にはしていない。

(こうしていられるだけで、もう充分)

健やかに生きて、誰かと話して楽しく笑って、大切な人が傍にいる、それだけで紗矢は幸せだから。

時折沖田と土方の口論が聞こえてくる。
というか、からかって遊ぶ沖田に土方が声を荒げているのだろう。
そんな喧嘩のようなじゃれあいの音に二人で笑いながら料理をしていると、次第に仲間達がやってくる。

礼儀正しく斎藤が戸を叩き、そして少し後に山崎と島田も訪ねて来て、
最後にがやがやと騒がしくしながら藤堂と原田と永倉が顔を見せる。

出迎えて紗矢は笑う。
こんなにも仲間達が一堂に会する事なんていつぶりだろうかと。

そう、そして今日は全員が集まれる最後の日だった。











気心知れた者達が集まれば、盛り上げようとしなくても勝手にどんちゃん騒ぎになる。
持ち寄って来てくれた酒を片っ端から開けていき、思い思いに楽しんでいる。
今夜は給仕やお酌などそういう世話もなしで自由にしていいという事だったので、紗矢も土方の隣でちょこんと座っている。

「斎藤もそろそろ出発するんだろ?」
「はい、一度会津の様子を見に行こうと思っています」
「そうだな……」

土方が聞けば、静かに酒を飲んでいた斎藤が頷く。
箱館が落ち着いた今、会津藩がどういう状態になっているのかを探りたいと彼は言った。

新選組の後ろ盾となってくれた会津藩に対する恩義はあるものの、
半ば見捨てるような形で蝦夷まで来てしまった事を土方もまた心残りに思っていた。

斎藤の忠心がどれほど強いのかを紗矢も知っている。
だからほとんど死ぬつもりで会津の激戦地に一緒に残った事もある。
一度は新選組の為に北上してくれたが、やはり彼の心は会津藩にあるのだろう。

「…………」

今の会津藩がどのようになっているか、それは紗矢も気になっている。
新政府軍に鶴ヶ城を明け渡し、不当な扱いを受けている事もあるだろう。

(もう、戻ってこないかもしれない)

一度、と斎藤は言った。だから五稜郭に帰ってくる気はあるのだろう。
だけど会津で何が起こるかわからない、もしかしたらそこで役目を見つけて留まる可能性だってある。

彼の生き方に紗矢がどうこう言う権利などない、好きに生きて欲しいとも思っている。
そもそも蝦夷に付いてきてくれたのも紗矢の我が儘のようなものだったから。
だけど、大手を振って喜んで送り出せない気持ちがある事も確かなのだ。

紫苑。大丈夫だ、もう俺は命を捨てたりはしない」
「……うん」

紗矢が考えていた事は少し違うが、暗い表情になってしまった事を斎藤に気遣われた。
真っ直ぐで、それこそ刀のように洗練された強さを宿す彼の目に、紗矢の頬が自然と緩む。

「俺は、俺なりの武士の形を貫いていく」

もう、彼は大丈夫なのだろう。
刀がなくとも、武士の魂を信じて生きていけるのだろう。
紗矢の我が儘から、そして新選組からも解き放たれた彼は自由だ。

「……気を付けてね」
「ああ、あんたもな」

表情を和らがせて小さく笑んだ斎藤に、紗矢も頷いて応えた。
少し寂しいが、彼が彼らしく生きられるならそれでいいと思った。

「いいんですかー土方さん。二人とも良い雰囲気出してますよー」
「余計な事言うんじゃねぇ、総司」

沖田のからかう声が聞こえて、そこで紗矢は斎藤の澄んだ瞳をじっと見つめていた事に気付いた。
はっとして隣を見ると、土方が渋い顔をしながら沖田を睨んでいる。
思う所があったのだろうが、何も言わず黙っていた所を沖田に指摘されたようだ。

気まずそうに反応したのは斎藤の方だった。

「申し訳ありません……そんなつもりはなかったのですが……」
「いや、いい、わかってる……」

何処までも真面目に返してくる斎藤に、土方が居た堪れない顔で手を振っている。

(えっと、この場合、謝らない方がいいのかな……?)

紗矢と斎藤にそんなつもりがない事など理解しているだろうから、
これ以上言い訳をしたら変な感じになってしまいそうで。
土方の顔色を窺いつつ、紗矢は何も言わずに苦笑する。

「おーい紫苑!じゃなかった紗矢!こっち来いよ、この酒美味いぜ!」
「あ……うん、行くー!」

ちょうどいい時に永倉からの助け船、ではなく声がかかり、そそくさとその場を離れた。
ここに座れ、と示された永倉の原田の間にお邪魔すると、お猪口を渡され酒が注がれる。

「ほんとだ、美味しい」
「だろ?もっと飲め飲め!」

楽しそうに酒を注ぐので、そのたびに紗矢は飲み干した。
この気安い雰囲気がやっぱり心地よくて、ふわふわとした気持ちで息を吐く。

「いやー女の恰好したお前見ると変な感じだったけど、慣れるといいな!やっぱ華があると酒が美味いぜ!」
「はは、新八っつぁん、やっと女装って言わなくなった」

今までの付き合いの延長なのだろう、永倉は紗矢の肩をがしりと抱き寄せて豪快に笑っている。
紗矢もまた、慣れているので腕の中でされるがままにしているが、焦ったのはさらに隣の原田だった。

「おい新八、そんな事してると土方さんに殺されるぜ」
「やべ、そうだった!」

チラリと皆で覗き見れば、遠くにいる土方は此方を一瞥しながらも山崎や島田と酒を酌み交わしている。
どうやら今日はあまりお咎めの言葉は飛ばないらしく、ホッと胸を撫で下ろす。

ならば、と原田が酒のつまみを寄せてくれる。

「これ、お前と千鶴が作ってくれたんだよな?美味いぜ」
「ありがと、左之さん」

女心がわかるというか、気配りを忘れない原田を紗矢は好きだった。

「左之さん達は、海の向こうに行くんだよね?」
「ああ」

原田と永倉はこの国を出て、海を越えて西の大陸に行きたいのだという。
新政府軍もいない国で、なんのしがらみもない状態で腕試しがしたいらしい。

「西に行く船っていうのが滅多にないらしいんだが、伝手ができたからそれに紛れて行こうかと思ってる」
「そっか……」

敵味方というものに縛られたくない彼らの意思は理解できる。
だけどその反面、海を越えて違う国へと行ってしまうという事は、そう簡単には会えないという事で。
応援したい気持ちはあるが、紗矢にとってはもう会えないかもしれないという現実の方が重い。
それを承知しているのか、原田は柔らかい眼差しで紗矢の頭を撫でる。

「寂しいなら、一緒に来るか?」
「えっ」

目の前には楽しそうに笑う原田、そして予想していなかった言葉に紗矢は固まった。
二の句が継げないでいると、どこから聞いていたのか土方の荒げた声が聞こえる。

「おい左之助」
「はは、冗談だって」

本当に冗談だったのか、手を離してからからと笑っている原田につられて苦笑する。

「お前は此処にいる方がいい。やっと女らしく生きられるようになって、よかったな」
「……うん」
「幸せになれよ、紗矢
「ありがとう、左之さん……」

彼は昔から兄のような人で、優しい人だった。
最初から最後まで、紗矢紫苑であっても女として接してくれた人。
いつも紗矢の幸せを心配してくれていた。

「やんちゃ娘だと思ってたが、綺麗になったな紗矢。本当に土方さんにやるのが少し惜しいな」
「土方さーん!左之さんがまた紫苑、じゃなかった……紗矢口説いてるよ!」
「ああ!?いい加減にしろよ左之助!」

藤堂の告げ口に、今度こそ土方は青筋を浮かべていた。

「やべぇ!」

遠くからでも殺気を感じた原田は弾かれるように立ち上がると、手水に行って来ると言って逃げて行った。
本気か冗談かわからないが、きっと酒で気分が上がっているのかなと思う事にした。
実際に紗矢もぼんやりするくらいには結構酔っている。

「左之さんも新八っつぁんも、元気でね。撃たれて死んだりしないでね」

原田はその場にいないが、永倉に振り向けば彼は複雑そうな顔をする。

「お前が言うと冗談に聞こえねぇな……まぁ、せっかく生き残ったんだから無碍にしたりしねぇよ」
「うん、そうして」

いなくなってしまうのは悲しいが、
やりたい事がやれるようになる日が来たのだと思えばそれは嬉しかった。
だから、ちゃんと送り出さなければいけないなと紗矢は内心を振り切る。

「平助はいいのか?来たいんだったら来てもいいんだぜ?」

永倉はさらに隣にいる藤堂を振り返るが。

「俺はいいよ。元々羅刹だし、此処で働けるだけ嬉しいよ。それに……」
「それに?」

はは、と笑っていた藤堂がふと表情を翳らせる。
その目は少し寂しそうな表情で遠くを見つめていた。

「……俺、山南さんの事が気になるんだ。羅刹になって目をかけてもらって、最後は俺を助けてくれたし……
あの人は早々に羅刹になっちまったけど、本当は何をしたかったんだろうとか、色々考えるんだ」
「…………」
「あー……平助はあの人と近かったからな」

元々同門である藤堂は、昔から山南を慕っていた。
羅刹になってからはほぼ一緒に行動していたから余計に思う所があるのだろう。

羅刹隊を率いて何かを企んでいるんじゃないかと疑う時期もあった。
だけど紗矢の脳裏に浮かぶのは、昔からずっと変わらない彼の穏やかな微笑みだ。

「だから今は勉強がしたいんだ。それで、できれば山南さんみたいになりたいって思う」
「いいんじゃねぇか?ま、平助が山南さんぐらいの頭になろうとしたら結構大変だと思うけどな!」
「はは、それは俺もそう思う」

永倉が持ち前の明るさで冗談めかすと、藤堂は表情を一転させて笑った。
だけど一度山南の事を思い出してしまった紗矢はそう簡単に戻る事ができず、視線を下ろしたままでいると藤堂が肩を叩く。

「悪い、しんみりさせちゃったな。ほら、紗矢ももっと飲め!」
「……うん。平助も」

楽しい酒の席に暗い話はいらないとばかりに藤堂が酒を注ぐので、
いつまでも引き摺ってはいけないなと努めて明るい顔を作る。

「でも平助、五稜郭にいるんだからもっと遊びに来てくれていいんだけどね。
むしろ別にこの家広いんだから、此処に住んでくれてもいいし」
「っ、いやいや、それは流石に遠慮するだろ!」
「え、うーん……そっか……」

仲間達も旅立つし、周囲に知己が減って寂しいだろうからと思って言ってみたのだが、藤堂は酒を吹き出す勢いで首を振る。
激しく否定されて、よく考えてみれば普通は嫌がるだろうという事に気が付いた。

「はあ……そりゃ土方さんが心配するわけだ」
「……あー、ごめん」

頭を抱える仕草をする藤堂に紗矢は苦笑する。
仲間達と距離が近すぎると、土方にも指摘された事があるからどうにも弱い。

「まあ、でも、ありがとう。またそのうちに顔を出すから。お前は大勢で騒がしい方が好きなんだろう?」
「っ……うん、ありがとう平助!待ってる!」

自分を知ってくれている人がいるのはとても嬉しくて、
その上で気遣ってくれる言葉にパッと笑顔で距離を詰めれば藤堂が顔を背ける。

「だから……それ、駄目だって……!」
「え?」

後ずさりをされて紗矢は首を傾げた。
青い顔の藤堂はずっと「殺される……」とブツブツ言っていて、
何か変な事でもしただろうかと理由を聞こうとした時、一時退席していた原田が大股で現れた。

「よぉし、盛り上がってきた所で久しぶりにやるか!」

宣言した原田がバッと上衣を脱ぎ捨てる。
鍛え抜かれた腹部にはいつかの刀傷が横一文字に引かれている。

「やった!左之の腹踊りなんて懐かしいな!」
「いいぜー左之さん!」

永倉と藤堂が囃し立て、その他の人間もまたやってるかという顔をしながらも楽しそうに眺めている。
紗矢もその馬鹿騒ぎが懐かしくて、まるで昔に戻ったような光景が嬉しくて感動すら覚えた。

紗矢!墨と筆を持って来な!」
「はいはいー」

変わらない人達に苦笑し、紗矢は別室から言われた物を持ってくると永倉に手渡す。
誰かが椀と箸で楽器代わりに奏で、永倉が器用に傷痕の周囲に墨を引く。

「おうお前ら!俺の腹踊りの見納めだ!ちゃんと目に焼き付けるんだな!」
「待ってって……おまっ、喋ると、顔が……っ!」
「あははは!やべー左之さん!」

二人が笑い転げているのを見ていると、感慨深い思いでいた紗矢も次第に笑いが止まらなくなる。
紗矢自身もまた、気付けば酒を何杯も空けていてかなり酔っぱらっていた。

「ふっ……くく、あはは!」
「ほら、紗矢!ちゃんと見えてるか!?」
「み、見え、てるよ……ははっ!」

おもむろに原田が、というか墨で書かれた顔が近付いてくるので、
紗矢は息も絶え絶えになるほどに笑って、そのまま背後に倒れ込む。
すぐ後ろには藤堂がいて、同じく爆笑している彼と一緒にもつれて床に転がった。

「あー!やべぇな紗矢!面白ぇ……っ」
「お腹が、く、苦しい……!」

楽しくて、嬉しくて、止まらない笑いのせいで息が苦しい。
重なっていた藤堂の腕を無意識に握りしめていると、突然紗矢の体が宙を浮いた。

「ぅえ!?」

誰かに持ち上げられたらしい事はわかった。
回らない思考で目の前の人物を見つめると、いつの間にか土方がそこにいた。

「じゃれついてんじゃねぇぞ」
「…………」

紗矢を藤堂から引き剥がすと、仏頂面の土方は二人の間にどかりと腰を降ろした。
それ以上何も言わないが、絶対にそこから動かないといった様子に周囲が笑いだした。

「何だよー土方さん!紗矢が他の男といちゃついてるのが気に入らないってか!」
「そうだ、悪いか」
「おお、認めた!」
「へえ、素直になったもんですね」

永倉の賑やかしにも動じない様子に、遠くで眺めていた沖田も呟いた。
堂々と返答した土方は、その調子で原田をじろりと睨み付ける。

「ほら左之助、早く続きをしろ。俺はまださっきのを許してねぇからな、俺がいいと言うまで腹踊りを続けろ」
「おいおい、まじかよ土方さん!」
「どうせなら腹に書き足してやろうか?一文字の傷を」
「目が怖ぇ!あーこうなりゃやけくそだ!」

強制的に腹踊りを続けさせられて、永倉と藤堂は笑いながらそれを眺めて。

「頑張ってー左之さん」
「ああ、紗矢を誑かそうとした罰だ」
「くそ!斎藤も酔ってるだろ!」

調子外れな茶碗の音を立てる沖田と、冷静に見えて様子のおかしい斎藤にも野次を飛ばされ、
悪態を付く原田を見て場は一際盛り上がる。

紗矢はその間ずっと、近くに来た土方をぼんやりと見上げていた。
その気配に気付いたらしい彼が、此方を振り返って溜息を付く。

「お前な……今日ぐらいは仕方ねぇと思ってたのに、我慢できなくなったじゃねぇか」
「……ごめんなさい」

羽目を外しすぎたかもしれないと肩を落とすが、存外に怒っていないらしい土方はくすりと微笑む。

「それで?結局お前は、誰を選ぶんだ?」
「…………」

(そんなの、決まってる)

酔いが回った思考であったとしても、考えるまでもなく答えは自然と言葉になる。

「土方さん、です」
「なら、あんまりフラフラして俺を心配させるなよ?」
「……はい」

穏やかな、優しい目を向けられて紗矢は視線が逸らせなくなる。
自分にはやはり彼しかいない、そう思った所で男達の叫びが聞こえる。

「くそー!見せつけやがって!」
「あーあーあー!俺も女が欲しい!」
「この場でわざわざ言わせるなんて、かなり意地が悪いですね土方さん」
「何とでも言え」

沖田の嫌味にも土方は動じなかった。

囃し立てられて気恥ずかしくはあったが、隣に想い人がいて、
しかもどうやら嫉妬してくれているらしい彼に紗矢の胸が熱くなる。
何となく触りたい気分になって、じゃれるように土方の腕にそっと頭を傾けると、小さく笑う声が聞こえた。

それでまた周囲は騒がしくなったが、その煩さも紗矢には心地よくて。
高揚した気持ちのまま酒の場は盛り上がって夜はさらに更けていく。

夜通し酒を煽る者、限界を迎え用意していた床で雑魚寝をする者、
思い思いに夜を楽しんで、騒いで、静かになって、気が付けば朝を迎えていた。











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騒がしいけど楽しい。
流石に全員と会話させられなかったので抜粋です。

基本的に二人きりだったりする時は昔の「歳さん」呼びに戻ってますが、
皆がいたり隊士の顔をしている時は「土方さん」になります。