戦の臭いがする。
静まり返った城内が緊張を引き立て、虫の音すら聞こえそうにない。

綾葉、来い」

別用で動いていた私を三成様が呼び立てる。
それだけで嬉しくなるのもつかの間、隣の左近がこちらの感情を見透かすように「よかったな」と小声で囁いた。

その楽しげな顔が憎らしく、だけど同時に左近を睨み付けた自分を戒めた。
左近はわざと神経を逆撫でするような事を言い、私が怒るのを面白がっている。
必死に牙を剥いている自分はきっと滑稽だっただろう。

負けたくない、屈したくない、主の隣にいたい。
そうやって、いつの間にか本懐を忘れ勝敗ばかり気にしている自分に気付いた。


自覚したのは、三成様が触れてくれたあの日。


――「……綾葉……お前は……っ!」――


触れられた意味はわからないけど、理由なんか関係なく嬉しかった。

左近がいても、三成様はわざわざ自分の所に足を運んでくれた。
今だって、私を所望してくれた。
自分の名を呼んでくれた。
水面下で争いを続けている中でも、隔てなく接してくれた。

私は必要のない人間ではなかったんだ。
どこにいたって私の主は三成様で、私は三成様の配下なのはもう変わらない事実。

「(申し訳ありませんでした、三成様……)」

もう、醜い感情で己を揺るがすのはやめよう。本懐を遂げよう。


傍にいるとかいないとか関係なく、
私は三成様の為に生きて死のうと決めたのだから。


だから、それでいい。


―――最後と決めた主の手は、温かかった。






22・涙、獣が望んだもの






「気がかりは池田殿と森殿か……焦らねばよいが」

先日、家康軍から寝返った池田恒興が、家康の本拠である岩崎城を攻め取ろうと息巻いていた。
報告によると家康は小牧山城に移動したという事なので、本拠が手薄なのは理解できる。
だがこの中入作戦は成功率が低く、敵に見つかれば返り討ちにあるのは必須だった。

寝返ってきた池田恒興と森長可が動きたいと言う手前、策を無下にすれば再び家康に寝返りかねない、
そういう事情もあって秀吉は強く反対する事ができずにいた。

「止める事は難しいでしょう」
「そうだろうなぁ……わしの出陣がもう少し早ければなあ……」

築城の事や様々な要因が重なって総大将は遅れての到着となった。
その間にも膠着状態は続いており、それが余計に中入作戦の意識を強めてしまったようだ。

「万一の時は頼むぞ、三成」
「はっ」

秀吉は視線を奥に見遣ると、三成の後ろに控えている左近と綾葉が目に入った。
ここに来るまで幾度か武将達と顔を合わせたが、後ろに控えた側近が二人だけというのは三成だけ。
他の武将達は権威を示すかのように連れ歩いていたというのに。

三成の性格はわかっていたが、秀吉は少しだけ心配だった。

「なぁ三成、これからおみゃあにも頻繁に前線に出てもらわなくてはならなくなる。家臣は多い方がよいぞ?」
「……は」
「左近と綾葉が悪いと言っているのではない。配下が多い事はすなわち自身の権威の現れじゃ。誰も文句が言えぬ程にな」
「それは存じております」
「……配下を増やす気はないのか?」


綾葉は無意識に不安を顔に滲ませて三成の背中を見つめた。

側近が少ないという事で、人望がないのではと陰口を叩かれているのは知っていた。
主の誇りの為にも秀吉様の意見には綾葉も賛成できる。

だけど……そうすればそうするほど、きっと自分は主と遠くなってしまうのだろう。

左近一人ですら動揺してしまったというのに、これ以上増えたら忘れられてしまうのではないか。
そうして自分の声が届かない所まで離れてしまい、自分は戦の中に消えるのだろうか。

……いや、それでいいんだと決めたばかりだ。
他に誰がいようと、誰も自分を見ていなくても、自分は主の礎となればそれでいいんだ。

だって、三成様が私に触れた。
三成様の目に私が映っていた……それだけでいいじゃないか。

これ以上何を望むというのか、この浅ましい心は。


刹那の空白が訪れ、鷲色の髪の主はこちらを一度も振り返る事はなかった。

「配下増員の利点は大きいでしょう。ですが、増えれば増えるほど統率がとりにくくなる事も然りと思います」
「……そうだな」

「私には左近と綾葉で十分です」


まともに見つめていられなくて、赤い装束を纏う主から目を反らして俯いた。




――泣きそうになった事を、貴方は知らないのでしょうね。

貴方の言葉一つで、私はこんなにも……幸せだ。





主と別れた後も、左近だけは面白そうに綾葉の後ろを付いてきた。

「よかったなあ綾葉殿、ずっと気にしていたんだろう?自分が殿の臣下たるべき人間かどうか」
「……」

綾葉が静かに振り返っても、ただ両手を挙げて人をからかい続ける。
どこまでいっても小憎たらしい男……だけど、彼がいれば三成様の周囲は安全だろう。

減らず口だろうが腕は確かで知才まで兼ね備えた、かの有名な猛将。

「左近殿、私は貴方の戦の才には尊敬しています」
「そうかい、それは光栄だ」


三成様に生涯付き従うのは、島左近。


「貴方は三成様にとって必要な方」


だから私は安心して任せられる。


「万一の時は三成様をお願いいたします。私ごとき人間が言う言葉ではありませんけど」
「…………」

左近から初めて笑顔が消えたが、それに綾葉は気付かなかった。

「私は三成様の為に死にます。貴方は、最後まで三成様の傍に」



あの言葉をくれた、だから私は喜んで死ねる。


左近と私以外はいらないと言ってくれた……不器用な主の為に。











「おかえりなさいませ、綾葉様」
「ご苦労様です隊長、こっちの準備は整いました」

綾葉を慕う男女に出迎えられ、軽く言葉を返した。
奏が手短に進軍準備の報告をし、綾葉もそれに指示を加える。

しかし、何度も戦を共にしている副隊長――篠田在時だけは異変に気付いた。

「……隊長?」
「はい?」
「何かいい事でもあったんですか?」

綾葉は静かに首を横に振った。

「……いいえ、何も」
「………」

やはり思い違いではないと感じた矢先に、またしても不安が在時に降り注ぐ。

「在時殿、私に何かあったら後をお願いします」
「……、隊長が真っ先に倒れないで下さいよ。そうなりゃ俺達も道連れだ」
「じゃあ、そうさせないように努力します」

笑い飛ばせそうな言葉を選んでも、胸を支配する靄は払拭できなかった。



「(……何で隊長……笑ってんだ……)」



戦前だと言うのに、どうして彼女はあんなに微笑んでいたのだろうか。

微かに赤い目が、今まで見た事ないくらい……幸せに満ちていた。


在時は言い表せない恐怖を覚え、笑い合う女二人を呆然と見つめた。





満面のものであればよかった、だけどあれは……今にも消えてしまいそうだったから。











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篠田 在時=しのだ ありとき
ずっと名無しで可哀相だった副隊長についに名前がっ!
普通すぎず奇抜すぎず脇役っぽいものにしました。

前哨戦なので短め。
10.24内容修正