―――世は、一瞬にして変貌を遂げる。
無意味に浮上したかと思いきや、いとも簡単に憎悪の対象と成り果てる。
この世の仇と思える程それは重く、激しい憎しみに近い。
繰り返し、どちらに傾き終わる事はなく苦しみだけが胸に染み渡る。
止められない。噴き出す感情が勝手に暴れて、刃物となる。
違う、これは自分じゃない。
こんな風に惑わされ、振り回され、意味のわからない怒りを見出すのは自分じゃない。
自分が自分でなくなるようで不快な事この上ない。
自分が次第に何物かに変異させられているような感覚。
足下を揺るがされ、このままでは自分が崩壊していく。
だったら、そうなる前に壊してしまえばいい。
こんな自分を狂わせるものならば、いっその事、いらない。
なくても生きていける、なかった始めに戻るだけ。
あれは、自分を狂わせる。
だからもう、全て消えてしまえばいい―――
28・憎悪の果てに
「大きくなったら綾葉お姉ちゃんみたいになりたい!強くなって、偉い将軍様に仕えるの!」
その日、幸村は城下のはずれにある民家の近くでそんな子供の声を聞いた。
サクサクと足音を立てて裏手を回り、雑木林のふもとの開けた場所で、
石に腰掛けて穏やかに微笑んでいる彼女を見つけた。
「わっ、本物の武士だ!」
「……幸村殿?」
突然長身の男が現れた事で驚き指をさす二人の童、
つられるように彼女はきょとんとした顔で振り向いた。
「やはり綾葉殿でしたか」
「どうなさったんですか?こんな町外れまで……」
「所用で近くに立ち寄ったんですが、楽しそうな声が聞こえたものですから」
綾葉の違った一面が見られたと機嫌の良い幸村だったが、
見知らぬ人間を警戒するように兄妹達は綾葉の後ろに隠れる。
それが少し可笑しくて笑みを零しながら「幸村殿はお優しい方だよ」と説明すると、兄の方が恐る恐る幸村を見上げた。
「……綾葉さんよりも、強いの?」
武士に対する興味が強い兄は、畏怖の念を抱きつつも負けまいとしていた。
もちろん師と称する綾葉は誰よりも強いのだという牽制の意味も含まれていたのだが、
予想に反して幸村はあっさりと言葉を否定した。
「いえ、綾葉殿は強いですよ。何度も負けた事がありますから」
「いつの話をしているんですか……今じゃ到底かないませんよ」
意表を突かれて見上げたのは綾葉の方だった。
「なら俺に剣を教えてよ!」
「無理言わないの、幸村殿はお忙しいんだから――」
「いいですよ」
それに嬉々として反応したのは兄、綾葉はまたしても呆然とするばかり。
目線を合わせて伺うが既にやる気になっているらしい幸村は木刀を手に取る。
それからしばらく幸村の剣術指南が続いた。
木刀で幸村に立ち向かい、するりと軽く避ける姿に兄はさらに熱を上げて突進していく。
突然現れた長身の武士が恐いのか妹はずっとやり取りを見ているだけだったが、
幸村が優しく参加を促すと少しずつだったが打ち解けて木刀を振るようになった。
「ありがとうございます、幸村殿」
「いいえ、楽しませてもらいました」
少しも息を切らせる事もなく幸村は綾葉の隣に座った。
ひとしきり指南をしてもらった兄妹は今度は二人で復習を始めている。
「剣を教えているんですか」
「……以前、城下を歩いていたら突然あの子達に"剣を教えてくれ!"と頼み込まれまして。
最初は躊躇っていたんですけど、こうやって少しだけ教えているんです」
まだ幼いのに必死で剣を習おうとする目がとても強かったと覚えている。
何だか自分と似ている気がして、放っておけなかった。
「あーまた負けた!手加減してよ兄上ぇ!」
「手加減したら意味ないだろー!?これは真剣勝負だぞ!」
鳴り止んでいた小気味良い木の音が再び鳴り始める。
何も言わずにぼんやりと眺めている綾葉はどこか悲しそうに、だけど柔らかく微笑んでいた。
「綾葉殿、何だか嬉しそうですね」
「え?……そう、ですね……嬉しいです。戦がなければ、こんな平穏が一番幸せなんでしょうね」
まさに今自分の中でじんわり染みていた感情が喜びだと、言われるまで気付かなかった。
そんな顔をしていただろうか、そう思いつつも妙に納得している自分がいる。
くすっぐたいのだ、こんな風景にはあまり慣れていなくて。
「実は子供が苦手だったんです。その、今まであまり相手した事がなくて……」
周りはいつも大人で、それも主従の関係ばかりだった。
戦と血ばかりで他人ともあまり深く関わろうとせず、子供とは無縁の生活を送ってき綾葉には、
子供はどこか未知の存在だったし、それ相応の態度というのも全くわからなかった。
「大分慣れましたけど、私の言葉はきっと子供に対する物言いではなかったと思います。
でも彼らは真剣に私に習おうと必死に付いてくるんです、複雑な事情があるとかで……」
「それで兄妹で剣の稽古ですか。
きっと城下で綾葉殿を見ていて、貴女のようになりたいとずっと思っていたんでしょう」
懸命に木刀を振る妹の姿に、幼少の頃の自分が重なる。
あんな風に自分は小さな体で大人になろうとしていたのかと、綾葉は在りし日の主の苦労を感じた気がした。
愛おしいと思うと同時に、無性に悲しくなる。
「私としては女子らしく普通に生きて欲しいのですが……それは、私が昔何度も言われ続けてきた言葉だったんです」
剣を習いたいと言い出した頃、真っ先に反対したのは主だった。
一切譲らない自分に、のちに主は考えを変えたのか覚悟を決めて指南をしてくれたが、
それでも二人は綾葉の成長に微笑みつつも時折暗い表情を見せた。
――「すまない、綾葉……」――
――「綾葉、貴女は女子なのだから、何も槍ばかりが貴女の道だけではないのよ?」――
「どれだけ周りに諭されようとも、何が幸せかなんて本人が決める事であって、こればかりは……」
「綾葉殿……」
遠くを見る綾葉の目は過去を映し出しているようで、幸村は足元に目線を落とした。
「その………長政殿と、お市殿の事を聞いて……あれからずっと心配していました…」
「…………」
彼らの名は禁句だった、武田を亡くした幸村があまり踏み込まれたくないのと同じように、
綾葉にとってもかつて最も敬愛した主とその奥方の名は傷を抉る事になるだろう。
そう思ってあえて避けていたのだが、幸村はついには口にしてしまった。
予想通りに綾葉は黙り込み、目を細めた。
だがそれ以上言葉が見つからない、少しでも心を軽くしたかったはずなのに上手くいかないと、
幸村はすぐに自分の言動を後悔した。
しかし先に微笑んだのは綾葉だった。
「……長政様が亡くなってから十年は経っています。もう、気持ちの整理はついていますよ。
それに今お仕えしているのは三成様です。今の私の命は、三成様の為にありますから」
「………そうですか…」
そんなはずないとはわかっていた、簡単に忘れられるものでも吹っ切れるものでもないからだ。
「貴女は、本当に長政殿の事をお慕いしていらした……そして長政殿も貴女を……私にも、よくしていただいた……」
思い出話をしても仕方ない、だけど言わずにはいられなかった。
凛とした強さを秘めながらも柔らかい物腰の君主は幸村も憧れる存在であったし、
何より彼女と出会って自分はもっと強くなりたいと感じたのだから。
遅すぎた礼を告げると、綾葉は消え入りそうな笑みを零して空を見上げた。
眩しすぎる日の光はまるで彼女の君主のようで、彼女はこの輝きに金糸を見ているらしかった。
「……あの人は誰よりも優しくて……侍女である私ですら本当の子供のように接してくださった。
ただ、いくら言っても子供扱いをやめてくれませんでしたけど」
太陽のような眼差し、そして義を貫く意志。
色素の薄い髪を光に透かせ、笑いながら綾葉の名を呼んだ。
その姿に見惚れ、しばらく動けなくて、それでも鼓動を抑えるように傍に居続けた。
主として、兄として……でもそれ以上に一人の男として、恋慕を抱いていた。
「あの人にとって私は可愛い妹分だったのでしょうね。でも、願える事なら私は…………」
――もう少し私が大人だったら、私をお嫁にしてくださいましたか?
そう言いたかったけど、結局は言えなかった。
――「この藤の簪が似合う、綺麗な女になるんだよ」――
二人の愛の証であった、藤の花。
長政様は藤の花が大好きで、お市様には藤ばかり贈っていた。
そして、私が藤のように可憐で素敵な女になるようにと「藤姫」と愛称をつけてくれた。
でも本当の藤の姫はお市様だったけど、小さな姫といった感じでお市様も喜んでその名を呼んだ。
今では形見になってしまった簪……他の人間の為に自分を着飾る気なんて全くなかった。
そういう所、全然気がついてくれない人だった。
もっとも気付いていたとしても、子供の淡い恋心なんて可愛い錯覚だとしか思わなかっただろう――
知らず顔が綻んでいて、我に返ると綾葉は恥ずかしそうに俯いた。
「……すみません、変な事言って。今まで長政様の事、誰にも話した事なかったのに幸村殿にはつい……」
「いえ、いいんですよ」
幸村は嬉しそうに言葉を返した。
泣きそうにしながらも、彼女は思い出を蘇らせて笑っていた。
それは吹っ切れるという形では快方に向かっているのではないだろうか。
彼女は前を向いて必死に歩いている、記憶を胸に抱えつつも今を生きている力を感じた。
大人になりきれていない少女の頃もがむしゃらで一途で美しいと思った。
「でも今の貴方も綺麗だ、どうしてでしょうね」
「え……?」
言葉の意味がわからず綾葉は首を傾げた。
「なんでもありません」とはぐらかされるとそれ以上深く追求する事はできず、
綾葉は微笑んでばかりいる幸村を見返した。
彼は、以前よりどこか影を帯びていた。
七つも年が離れていて、初めて会った時は彼は本当に幼い子供だったから、
成長して精悍な表情になったのかもしれないがやはり心配だった。
「幸村殿こそ……貴方は、どこか思い悩んでいるように見えます」
「……そう見えますか?」
「ええ。長年、人の生き様を見てきた訳ではありません」
今度は幸村が眉を潜める番だった。
「従事していた武田家があのような事になってしまって、無理もないのでしょうけど……」
「………」
あれから数年しか経っていない。幸村が羽柴軍に従軍したのは本意ではないだろう。
彼の中に占めていた武田の存在は間違いなく大きいものだったろうし、これからの身の振り方も決めかねているようだった。
「厚かましいかも知れませんが………幸村殿の気持ち、少しだけわかります。
私も……帰る場所を失いましたから……」
「ええ……だけど私はまだ心の整理がつきません。貴女のようにはまだ……」
「……私は弱いですよ、どうあったって長政様とお市様を忘れる事なんてできないんですから……
ただ……もう少しだけ、お二人に会いに行くのは後にしようと思うようになっただけですから」
様々な主を経ても揺るがなかった自分の気持ちは、どこか変わっていた。
「死にたかった、だけどもう少しだけ生きてみようと……それだけです」
「………貴女は、新たに帰る場所を見つけたんですね」
「え……?」
鷲色の主はいつも背中を向けていて、だけど時折怒ったような目で振り返る。
あそこが自分の場所だと感じたのはいつからだったろうか。
「………ええ。でも主は気難しい方ですから、きっと認めていただけないでしょうね」
はにかんだ表情はかつての少女のようで、幸村もつられるようにして目を細めた。
兄妹と別れると、綾葉は今の主である三成の元へ行く用があると告げた。
幸村も偶然にも同じだったようで、互いに休日でありながらも揃って歩き出した。
屋敷に差し掛かる頃、幸村はふいに頭を下げた。
「すみませんでした。無遠慮に長政殿の事を訊いてしまって……」
「いえ私の方こそ……まだお辛いでしょうに」
綾葉もすまなそうに俯いて、だけど次には「ありがとうございます」と顔を上げた。
「……あの人の事を、誰かに笑って話せる日が来るとは思いませんでした」
「ええ……悪い事ではありませんよ。私でよければいつでも話相手になりますから」
「……………」
「(そうして、"あの人"が薄れていく……)」
歩みを止めてしまった綾葉を振り返ると、彼女は再び泣きそうな顔で笑みを作っていた。
その瞬間に悟った、彼女だって全て整理できている訳ではないのだと。
過去に嘆き、それでも必死に今を生きて、だけど溢れる恐怖に身を震わせて、
進もうとしながらもちぐはぐな感情に身を焦がしているのだと。
「…………本当は、思い出になるのが恐いんです」
彼女は未だ苦しんでいる、自分と同じように。
「……私もですよ。でも忘れている訳ではないでしょう?
私にも何が良い選択なのかわかりませんけど、それでいいんだと思いますよ……」
かの太陽のような主は、彼女が笑顔になるといつも満足そうに優しい表情を浮かべていた。
彼は恐らく、そんな彼女を愛しい気持ちで見つめていたのだろう。
「貴女が笑って生きられる事、長政殿はそれを望んでおられるのではないでしょうか」
「…………わかっては、いるんですけど……」
「知った風な口をきいてすみません」と謝りつつも、何だか彼女の主にでもなった気分だと幸村は思った。
儚げに、それでも振り切るようにして強くいようとする姿は、
幸せでいてほしいと確かに思わせるものがあった。
ふっと顔を綻ばせて、無意識に綾葉に手を伸ばそうとしたその時、
綾葉の目が驚きに見開かれて幸村も後ろを振り返った。
「あ……」
縁側で仁王立ちをしていたのは綾葉と幸村が訪ねるはずだった三成。
彼はこれ以上ないほどの怒りを込めた目で綾葉を睨み付けていた。
何故だかわからないけど後ろめたい気持ちが綾葉を襲い、
視線がかち合うと三成は鷲色の髪をひらめかせて踵を返した。
「、ぁ……三成様!」
追いかけなければいけない、そんな気がした。
置いて行かれる、無性にそんな悪寒を感じて走らずにはいられなかった。
「あ、あの……三成様……!」
一度も振り返らない背中が恐い。
その目は嫌だ、いつもの照れるようなものでも、静かなものでもなくて。
切り捨てられる、そう予感させる殺気はただ恐ろしくて。
必死で後を付いて、しばらくすると三成はピタッと動きを止めた。
主の突然の様子に原因を探ってみても思い当たらず、そして顔色は伺えない。
「………俺でなくともよいのだろう?」
「え……?」
主の拳は音がするほど強く握り締められてた。
「ならば幸村にでも仕えればいいのだ。あいにく俺には故人を偲ぶ暇などない」
「み、三成……さま?」
「お前はずっと俺の傍で忠義を払ってくれた、俺もお前を信頼していた」
――どうして、過去形なのですか?
「だがそれは……俺の為ではない!」
「……っ!」
「桜の時も、お市様の時も……!いつだってお前は俺など見ていなかった!」
振り返った主の目は、この世の仇のように憎しみが溢れていて、
金縛りにあったように綾葉の体は硬直した。
「お前は俺を利用して、浅井長政の為に死にたいのだろう!」
「!!!」
ビクッと肩を震わせた綾葉を見下ろして、三成の怒りはさらに頂点に達した。
「死にたいのなら他へ行け!俺を巻き込むな!」
「ち、違います!私は……っ!」
「もういい、勝手にしろ!」
「お、お待ち下さい!私は三成様を真に……!」
どれだけ追いかけても主は荒々しく廊下を進んでいく。
綾葉は既に泣きそうな程動揺していたが、三成が気付くはずもなく虚しい声だけが屋敷に響く。
「お願いです……私を、見捨てないで下さい!三成様っ!」
「煩い、二度と傍に寄るな!」
騒ぎを聞きつけた左近が部屋から飛び出してきたが、
尋常ではない様子に左近は珍しく慌てて主を引き留めようとするが。
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さいよ殿……っ!」
「お前は黙っていろ!」
誰の声も聞かず、誰とも目を合わせようとはせずに最後の主は部屋の奥に消えた。
「三成様ぁっ!!」
綾葉は愚かな自分の頭を抱えて、力なくその場に崩れ落ちた。
―――わずかでも動揺した自分を……三成様は、きっと許して下さらない。
世界は、闇に包まれた。
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大変に難産な回でした。
本当は普通の女らしさもあるんですよという前半と、突然の展開の後半。
なんだか間延びしてしまいました。
子供を関西弁とかにしようと試みましたが撃沈しそうなのでやめました。
さて、新たな展開になります。