――突き放されて、振り向いてもらえなくなって。
遠ざかっていく主の姿に胸が鳴いた。
私を支配するのは焦燥と、そして……これは確信。
思わず嗤ってしまうほど揺るがない答えに、不思議と納得してしまった。
私はもう、何処にも行けないのだ。
「お帰りなさい、殿。して、どうでした?」
「ああ、やはり秀吉様は新姓を望まれるそうだ」
左近殿だけを視野に入れて主は淡々と謁見の詳細を口にする。
私はその後ろを何も言わず歩いて行く、今までと同じように主に付き従って。
ふと左近殿への視線からずれるように、三成様の鋭い目が一瞬だけ此方を向いた。
全て理解されるとは思っていない、ただ主に対する忠義心は本物だという事は伝わって欲しい。
敵意剥き出しの目に怯みそうになった、でもそれだけは分かって欲しいと真っ直ぐ見上げると、主の表情はさらに険しくなった。
(三成様……もう、私の存在意義は此処しかないんです……)
傍に控えていてもあの時のように突き放されるような事はなく、
それだけでまだ救いはあるかもしれないと懲りずに訴え続ける。
だけど存在自体を受け入れまいとして主は興味をなくしたように背中を見せる。
「……行くぞ左近」
望まれていない自分の、屈せず歩みを止めないこの精神は自讃してやりたいくらいだ。
自嘲と諦めに似た、私を勇気づけるように蝕む真実に気付いた。
いくら主から見放されようとも。
たとえこの先何が起こったとしても。
それでも私は離れられないのだと―――
29・変貌を遂げる色
「さて、どうしたもんか……」
控えの間でどっかりと腰を下ろした左近は綾葉を見るなり深い溜息をついた。
それについては申し訳ない気持ちでいっぱいの綾葉は、その正面で「すみません」と薄く笑った。
綾葉が主の傍にいると重苦しい空気が流れて仕方がない。
伝染してこっちまで気まずくなる、と左近は幾分か疲れを見せる。
二人の主である三成は今、総大将と会議中な為不在だ。
「難儀だなぁ……」
ほぼ綾葉の相談相手になってしまっている左近は、この最悪な状況の打開策を模索しつつも、
感情の行き違いによって生じた溝の修復は、他人では不可能なのだとも既に気付いていた。
内面の問題、こればっかりは当人同士で何とかしなければいけないだろう、男と女であるから尚更。
「殿はあんたの中にいる浅井長政が嫌みたいだ」
「……………」
「死人に勝てる訳がない、そんな事は殿も重々承知だろうがな、
だからといって自分の敗北を素直に認められる程、男という生物は良くできていない」
綾葉としても彼を完全に忘れた事にして三成に仕えるというのは無理なのだ。
主の望むようにしたい、でもそればっかりはできない。
自分でどうこうできる問題でもない。
(確かに長政様は大切だけど……貴方も大切なのだと、どう説明したらいいんだろう……)
「あの時……一瞬でも躊躇ってはいけなかったのに」
綾葉は困り果てていた。
いくら態度や言葉で伝えても、主はもう心から信じてはくれない気がして。
「だが言っちまった手前、殿も引き返せなくなってる」
突き放された日以降、主が本気で綾葉を排除しようとした事はない。
そこからも真に憎んでいる訳ではないとは何となく読み取れたが、
綾葉の存在を無視し続けるという事は、睨み付ける程の感情は今でも渦巻いているはず。
どれだけ言葉を並べても彼には恐らく言い訳にしか聞こえないだろう。
その怒りを静め己の答えを整理させて、互いに歩み寄る為には暫しの時間が必要なのだ。
必要、なのだが……
「俺はな、綾葉……殿を支えられるのはあんたしかいないと思ってる」
左近ほどの人物が何故そのような事を、と綾葉は首を傾げた。
「それは左近殿の方が適任では――」
「いや、生涯の伴侶という意味でだ」
「…………御正室様、という事ですか?…………わ、私がですか!?」
まさかとは思ったが、左近の無言は肯定を意味していた。
「な、何を言っているのですか!私は三成様の配下なのですよ!?」
「配下だから娶ってはいけない事はない。それにあんた、元は浅井家直属の家臣だったろう?ならば問題ないが」
「左近殿!恐れ多い事ですよ!?」
綾葉は怒りで顔を真っ赤にさせて捲し立てた。
冗談よりも質の悪い侮辱ともとれる発言に、左近がそのような人間だとは既に思ってはいないが、
何故今それを言うのかは全く理解できなかった。
「考えた事ないのかい?」
「ありませんよ!」
「……今までの主に対しても?」
「っ、不謹慎ではありませんか!?」
だがいつものように余裕に満ちた笑みでもなんでもなく、静かに綾葉の心を見透かすような目に、
これは真面目な話なんだと嫌でも突きつけられて、無理矢理気持ちを落ち着かせながら俯いた。
考えた事など一度もない。
『あの人』以来、そのような感情すら湧かなかった。湧くはずがない。
順を追って整理しようとすればする程余計に動揺している自分がいた。
左近の視線に耐えきれなくて、辱めを受けている気分になる。
「そんな、あり得ません……もっと素晴らしい姫君はたくさんおられるじゃないですか……」
「他でもなく俺が言ってんだ。ま、信じる信じないはあんたの勝手だがね」
「…………」
「もっとも、今の状況ではこんな事言ってられる場合じゃないが」
左近は久しぶりにクッと笑って見せた。
それはやはり自嘲に思え、綾葉は左近の真意をいまいち汲み取れずにいた。
「あんた……殿の伴侶になる気はあるか?」
「ですから……何を突然……っ」
「仮定でいい。どうなのかと聞いている」
主には忠実だ、どんな命でも受ける自信はある。
だから夫婦になれと言われたなら、自分の気持ち云々を差し置いても答えは「是」しかない。
「……ご命令であれば」
「本当だな?それがどういう事かわかっているか?
下世話な言い方をすれば、殿と夜を共にし、子を作っても構わないという事だぞ?」
「……っ!左近殿!!」
「気に障ったか?命令ならばそれをも厭わんという意味だが?それとも、何か他の理由でもあるのか?」
「っ!し、知りません!」
怒りで立ち上がり背を向けた綾葉に、左近は執拗に言葉を投げかけていく。
動揺し、落ち着きなく辺りをうろうろする綾葉の挙動を見定めるように。
「知らん、か……本当に?」
「仰ってる意味がわかりません!そのような事は三成様、ひいては秀吉様がお決めになる事です!
このような所で我々が口にする話題ではありません!」
「そうかい」
湖の中心で手足をばたつかせても直にゆらゆらと静まっていく水面のように、
左近は綾葉の激昂を受け流すばかりだった。
じっと相手を見上げ、様々な疑問を投げかけては綾葉の内面を探り続ける。
今まではこんな事する必要性などなかった。
鈍感だなぁとは思いつつもいずれは終着するだろうと高みの見物でいるつもりだったのに、
再び入った亀裂は下手をすれば今後を大きく左右しかねない。
「だが、殿の縁談が現実になるのもそう遠くはないぞ。
殿もそろそろ身を固めねばならんお歳だし、大殿が縁談の準備を進めているという話も出ているらしいからな」
「……え………?」
綾葉はこの時初めて体の奥が冷たくなったのを自覚した。
「わかるか?決まってからでは遅いんだぞ」
「どういう、意味ですか……」
「さてね、それは自分で考えるんだな」
「…………」
次々と投げかけられた問いに、仕舞いには黙り込むしかできなくなった。
意図せずして作られた沈黙の空間で、遠くから此方に近づいてくる人の気配を感じた。
来客の足音に初めは襖を見つめていた二人だったが、それが見知った存在だとわかるとすぐに警戒を解いた。
恭しい礼で迎え入れると、ねねは朗らかに笑い綾葉の傍に座った。
だが彼女は今までの会話を知っていたかのように眉を寄せて心配そうな表情を見せた。
「綾葉、三成と喧嘩でもしたの?」
「おねね様……」
包み込むように心地良く耳に入る声は、静かに綾葉の心をくすぐる。
まるで子を気に掛ける母親のような温かさで。
綾葉の弱みが、染み出していく。
「あの子ずっと機嫌が悪くて何も答えてくれないの」
「……それは……」
素直でない性質については群を抜いている主の事だ、そう簡単には口を割らないだろう。
妙に納得しつつも、やはりまだ許されていないのだと推測できて綾葉の体はまた少し重くなった。
「……三成様のご不興を買ってしまいました。
私はもう、あの方にお声をかけていただく事も望まれる事もありません」
諦めたように笑った綾葉に、ねねは悲しそうに首を傾げた。
彼女にはわかっていたのだろう、二人の間にはこれまで以上に大きな溝が出来てしまっている事に。
「それでも三成に仕えていたいのね?綾葉……なんていじらしい子」
「……ご心配かけてしまい申し訳ありません……」
相談相手になっている左近に続き、ねねまでもわざわざ綾葉の元に出向いてくれた。
この用件の為だけに彼女は此処まで来たのだろう。
ただの配下であるのに気に掛けてもらえる自分は幸せ者だと綾葉は思った、それ故に事の深刻さが重くのし掛かる。
「時間が解決してくれるって言いたい所だけど……時期が悪かったかもしれないわ」
「………」
ついさっきもそう言われた、思わず顔をそちらに向けると左近と目があった。
彼は両手を組んで眉間の皺を増やし、ねねも片頬に手を寄せて同じように考え込む。
その間で綾葉は浮かばない解決策に失笑するように、恐縮して畳を見つめるばかり。
ねねは不安を煽るような声音で小さく呟いた。
「手遅れにならなければいいけど……」
二人の言葉の本当の意味を理解したのは、それからしばらく経った後の事。
―――世は、一瞬にして変貌を遂げる。
いや、既に変容していたのに気付かなかったのは自分だ。
「それで叩き落としてやりましたよ!」
「ふふ、お奏殿らしい」
意気揚々として熱弁する奏を横目に、綾葉は細かく槍の手入れをしていく。
重苦しくなってしまった主との時間から逃げるように、
心地の良い空間で綾葉はゆったりとした流れを楽しんでいた。
自分が居たいのだから仕方ない、そうは思っていてもやはり気疲れは必須で、
奏の世間話は良い意味で現実を忘れさせてくれた。
「在時殿なんか近くにいたんだから手助けしてくれてもいいものを、呑気に笑って見てるだけなんですよ?」
「あの人は自分の事以外は静観してる性格だからね」
直属の配下である彼女らの話は聞いているだけで面白いと、綾葉はくすりと微笑んだ。
何だかんだ言って息が合っているのだ、似たもの同士だと思う。
だが奏の勢いが益々強まった頃、一目散に駆けてくる足音を聞いた。
「――綾葉!!」
「っ、……左近殿?」
スパン!と遠慮無く開け放たれた襖から、戦時のような真剣な表情が覗いていて綾葉と奏はさっと顔色を変えた。
まさか何か良くない事でも起こったのかと。
何かを伝えようとする鋭い眼光は綾葉の体を無意識に震わせる。
呆然としながらも自然と立ち上がった綾葉、だが息を切らせて口を開いた左近の言葉は意外なものだった。
「……殿の、縁談が決まった」
「……………え……?」
ドクン、と胸が跳ねた。
左近の言葉がどういう意味なのかをすぐには理解できなくて、だけど何処かでは確信していた。
朧気ながらもいつかこんな日が来るのだろうと。
それならば何故、痛いと思うのだろうか。
「相手は宇多頼忠殿の娘だそうだ」
「三成様が………縁、談………」
一気に遠い存在のように思えて、何処かに行ってしまう錯覚に陥りそうになる。
肝心の思考は真っ白で何も考えられない、ただ『縁談』という意味だけを必死に探していて。
……この感覚を、私は覚えている。
「綾葉、様……?」
「これでよかったのか?後悔してもしらねえぜ」
「……………」
そうだ、私はこの感情を知っていたのに。
どうして気付かなかったのだろう、どうして忘れていたのだろう。
ふらふらと外へ出て天を見上げると、黄金色の太陽が刺すように綾葉に降り注いだ。
直視できない輝きに手を翳して、それでも伺い続けた。
「………長政様………ごめん、なさい……」
―――これは……貴方の時と、同じ痛みです……
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一気に行きました。
やっと、やっとですね。