陽動部隊は幾度となく城の周囲で敵を攪乱し、降伏に応じない高松城主との膠着状態を継続させた。
本隊が新たな策を講じている事を気付かれないように細心の注意を払い続け、そうして堰が完成した。

陽動部隊の最後の作戦は雨を合図にして始まる。
堰に水が溜まるまでの時間稼ぎと、敵兵をおびき寄せる事が綾葉達の締めの役目になる。
そこで臣下の誰もが、秀吉はもの凄い強運を持っているんだと思い知らされた。

雨は、かつてないほどのどしゃ降りだった。
その雨が強ければ強いほど、水攻めには有利に働く。
堰を隠すのには適した視界の悪さ、そして敵の混乱……誰もが作戦の成功を確信した。


綾葉すらも、初めはそう思っていた。
だがそれは……笑っていられない状況に一変するまでの事。



雨足は……弱まるどころか、更に酷くなっていった。
敵味方関係なく多くの者が地面のぬかるみに足をとられ、その隙に命を落としていく兵達。
雨でどんどん削られていく体力。体温の事などとうに忘れている。
泥沼状態とはまさにこの事だった。



綾葉はずぶ濡れになって滑る槍を持ち直していた。
そうして、陽動部隊を指揮する隊を仰ぎ見ようと―――

「!……正則殿の隊がいない…っ!」

この時はっきりと、全身に伝わる雨の気持ち悪い冷たさを感じた。


しまった……伝令が伝わって来ていない……!


陽動部隊引き上げの合図を行うのは正則の隊からの伝令のはずだった。
だがそれがこの大雨と視界の悪さでどこかで途切れ、おそらくこの辺りの味方兵は取り残されている。

地面は随分ぬかるんでいる、おそらくもう堰の準備は出来ている。
このままでは……っ!


「全員撤退せよ!早く!!」


未だ戦いを続ける兵達に檄を飛ばし無理矢理戦線から引っ張り上げる。
早く、一秒でも早く逃げなければ。


このままでは……全員呑み込まれる……っ!!






9・不器用なひと






水攻めは大成功であった。
陽動部隊が戻ってきた所を見計らい堰を破壊すると、既に限界であった溜水は濁流となって高松城に押し寄せた。

これで完全に高松城は孤立、後は時間の問題だった。


「おお~よくやった正則!後で皆に褒美をとらせよう!」
「はっ、ありがとうございます秀吉様」

秀吉が上機嫌で正則を労い、皆も満足げに城を見下ろした。
だが唯一人、その異変にいち早く気がついた者がいた。

「……正則殿、隊はこれで全員ですか?」
「ああ、これで全員だ。後は敵兵にやられたかと思うが……何か問題でも?」
「…………いや……」


綾葉が、いない。


全員が拠点に戻っていくのに対して三成だけが1人その場に残っていた。
秀吉に怪訝そうな顔をされたが、やる事があるのでと苦し紛れの言い訳で先に行ってもらった。

……綾葉が帰ってこない事、それが三成の足を完全に止めていた。
現状を正確に判断し妥当な行動を行うはずの男が、今まさにこの現実を信じられずにいた。



何故帰ってこない。


何故綾葉がいない。



真っ白になって何も考えられない思考、鳴りやまない警鐘を打ち続ける胸の鼓動。
何かが頂上から崩れていくような……何かを抉りとられたかのような言いようのない感覚。
痛い。何がだとか何故だとかはわからないが……痛い。

三成は気付いていなかったが、それは喪失感だった。
焦りも怒りも全て入り交じった感情が三成を支配していた。



――「あの子は……三成を心から信頼してくれてる、数少ない子よ?」――

――「だからこそ今回の作戦に入れたのです。いけませんか?」――




……何故綾葉が帰ってこない……っ!



「……俺は……何かを、見誤ったのか……?」


非情にも雨は降り続ける。
濡れる事もいとわぬまま、三成は立ち尽くしていた。


「期待に添えるのではなかったのか……!!」


ざぁ……という音が、耳障りだった。















全員を導きつつ一心に山の尾根を目指す。
何も知らない敵は逃げる兵を追撃するように背後にピッタリくっついている。

「……くそ……っ!」
「!構わなくていい!!」

もう少しで安全な地点、という所で一人の兵が追いかけて来る敵に向かって走り出した。
そんな事をしている場合ではない、早く上がらなければ……流される。
水を逃れた敵がいたなら後から相手すればいいだけなのに。

「下がりなさい!!」

槍で一薙ぎすると、兵の首根っこを掴んで無理矢理にでも走らせた。

「離してください綾葉殿!俺が殿(しんがり)を務めますから!」
「馬鹿!そういうのは命をかけると決めた主だけにやりなさい!!」

綾葉は一人前の男がすくみ上がるほどキッと鋭い目で睨み付けた。
納得したのか観念したのか、男は素直に走り出した。

「……すみません、綾葉殿―――」


―――言い終わる前に、山奥の方から不気味な地響きが聞こえた。


そこからは、世の時間が遅くなったように、全てがゆっくりと進んでいった。
木々を全てなぎ倒すように背後に迫る濁流、間一髪で流される事を逃れた兵達、
そして水の圧力により岩が削り取られ、直前に叱咤した兵の足が水に呑まれていくのを。

「………!!!」

全ての時が止まりかける中で綾葉は必死に手を伸ばし、それを掴んだ。
土砂に呑み込まれる寸前の所で兵を助け出し、その反動でぬかるんだ土に倒れ込んだ。

「はぁっ……はぁっ……!」
「す、すみませ……綾葉殿……」

綾葉は泥だらけの顔を拭う事もせず、ただ謝り尽くす兵に笑った。

「……さっきも聞きましたよ、その言葉」


もうこれ以上志を同じにした仲間を失いたくない。
悔しい思いはしたくないと咄嗟に伸ばした手で、今亡くしそうだったその一人を……救えた。
切れ切れになった息を整えながら、それだけは嬉しいと感じた。







本隊との合流地点に向かうと、やはり隊は皆引き上げていた。
うまく合流できなかった自分は、もう三成様に愛想尽かされてしまったのだろうか。
それとも死んだと思って処理したのだろうか。

いずれにせよ、雨が冷たい。


「…………え…?」


霞む景色の中で、どしゃ降りの中でただ一人立っている人影がある。
あれは、もう見慣れたものになっていた……赤みがかった鷲色に金色の飾り……



「……三成、様…」


不機嫌な、目。


「問題はあるか?」
「………え?」
「問題はあるのかと聞いている」
「……あ、ありません」
「ならばよい、陣に戻るぞ」
「………」

それだけ言うと三成は顔も崩さずクルリと向きを変えさっさと歩き出す。
完全に雨を含んだ衣装が重そうに揺れている。

あの不機嫌な目で怒られるのだと思っていた綾葉は茫然とその濡れた背を見つめていた。
怒っていない?愛想尽かされたのではない?
でも、愛想つかされたのなら、こんな所で一人で立っている訳がない。

……なら、どうして?


……もしかして、待っていてくれた?


「どうした、来ないのか」
「すみません、すぐ行きます」

ハッと我に返り走り出した綾葉を追うように、兵達もその後ろを付いてくる。
目の前の主は、もうこちらを振り返ったりはしない。



……もし、これがあの人だったら、きっと草の根掻き分けて探し回るか、
見つけたら見つけたで「怪我はないか!?心配したぞ!」とまくしたてるに違いない。
それ以前に、こんな危険な任務には絶対参加させてもらえない。
たとえ任務が遂行できる腕を持っているとしても、頑として許してくれなかっただろう。
あの人は、信頼してくれていたから危険な事はさせてくれなかった。


……だけど、三成様は。

私をちゃんと一人前として扱ってくれて、
そして恐らく信頼してくれているからこそ平気で敵地に送り出したりする。

そうやって危険な役目を与えているけど……たぶん、心配してくれていた。
「問題はあるか?」って、恐らく三成様なりの心配の言葉なんだろう。

あの人のように窮地の所を武器一つで助け出してくれたりはしないけど、
こうやって、私が逃げてくるのを一人で待っていてくれる。
合流が遅れた事など怒りもせずに、静かに。

私がきちんと役目を終えて、合流地点に来るのをずっと待っていてくれた。
……こんな、嬉しい事はなかった。


「……三成様」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「……何もしていない」

そう、何もしてくれなかった事が嬉しい。

「まずはその泥を流せ」
「……はい」

心配して待っていてくれたのに、まるで心配などしていないかのような素振り。

そのまま振り返らないでいて、三成様。
だって今……顔がもの凄く笑っていると思うから。
こんな顔見られたら、誇り高い主はきっと怒り心頭になってしまうから。





――様、私は…本当に心からお仕えするべき主を見つけたのかも知れません。





貴方のような、光に溢れた優しさや慈しみをくれる方じゃないけど、
生真面目で、でも優しくて………とてもとても、不器用な人。


これからも、もっと……お傍にいさせてくださいね、三成様?


綾葉は満面の笑みを浮かべながら三成の背を追った。






それから数日後、織田信長が本能寺にて明智光秀の謀反にあったとの一報が入った。











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ヒロインに伝令がいかなかったのは、微妙に偶然です。
福島さんとは言い合いをするぐらいの悪い仲ですが、まだ陥れるほどではありません。

三成様にぶいです、にぶにぶのおおにぶ(笑)
やっと互いに距離が近づいてきたかも。

ようやく本能寺の変。