「すまなかった」
そう囁いた主に綾葉の目は見開かれた。
信じられない言葉を聞いたように、だけど綾葉を救うには充分すぎる一言で。
自分は、今まで自分の主を見くびっていたのかもしれないと気付いた。
主の意にそぐわない行動をとれば不興を買ってしまうのではないか、
捨てられるのではないか、そうやっていつも怯えながら傍にいた。
確かに何度も似たような事はあった、だけどそのたびに主は綾葉を許してくれて、傍にいさせてくれる。
そう、危惧していた事とは裏腹に、最終的に見捨てられる事なんて一度もなかった。
優しい人だ。それなのにいつの間にか自分は嫌われたくない一心で大事なものを見逃していた、
それを主は怒っていたのかもしれない。
(三成様は私を信頼してくれている。私も、信頼しなくてはいけなかったんだ……)
気付くのが少し遅かった、それでもあの穏やかな場所だけは戻ってきて。
嬉しさとも、寂しさともわからない気持ちで、綾葉は涙を流した。
ただ、三成様だけはいつだって変わらない。
33・芽吹く山茶花
「ありがとうございました……」
「お前に礼を言われる筋合いはない」
不機嫌にも見える表情で三成は顔をしかめたが、予想通りの反応に綾葉はくすりと微笑んだ。
綾葉を襲った男を城に連行した後、やはり男は死罪にすべしという気配が濃厚だった。
だが綾葉としては一度は仕えた者、そして事の発端は自分が男を惑わせたせいだからと、
できれば死なせたくないという気持ちが大きかったが体裁上周囲の人間が許さなかった。
懇願は聞き入れられず綾葉が唇を噛みしめていた所に助け船を出したのが三成だった。
彼が至極自然だというような雰囲気でうまく説明してくれたおかげで、
男は死罪を免れ地方で長期の労役刑に処される事が決まった。
いうなれば強制労働だが、一応食事や住居も与えられる。
「……これも、己が満足したいだけかもしれませんけど」
助けた事だけで満足しようとしている自分は偽善者だ。
彼はこれからも生きていかなければいけないのに、後はどうなろうと男次第だと心のどこかで思っている。
あのまま死なせてしまうのは後味が悪かっただけなのかもしれない。
「私があの人の人生を狂わせてしまったんです」
この一連の騒動の原因は自分だと、綾葉は独り言のように呟きながら自嘲で顔を歪ませた。
あの時に付けられた傷が今でも時々痛む。
消えつつある跡を何度もさすりながら、やつれた表情で乾いた笑いだけ浮かべて虚空を見つめる。
女の身のせいで襲われかけた事もある、だけどそれが以前の主だったのは初めてだった。
月日が経っても、あんなに殺そうとする程までに憎しみを向けられたのも初めてで。
そして男は、綾葉の生き方を真っ向から否定した。
「"お前さえいなければ"……そう言われました………」
綾葉と出会わなければこんな結末にはならなかったかもしれないと、考えれば考えるほど否定できなかった。
主だと担ぎ上げたのは自分だ、そして力を与えてしまったのも。
自分が必死に生きてきたその一方で、誰かが歪んでいく。
自分は此処にいていいのだろうか、このまま誰かの背に隠れたままで。
頭に立つ気もない、逃げ道を残すような生き方は本当に正しいのだろうか。
「あの男には義がなかった、ただそれだけの事だ」
独り言すらもなくなってしまった無音の空間で、しばらく筆を進めていた三成が突然口を開いた。
応えてくれるなんて思いもしなかった綾葉は驚いたように顔を上げた。
「軍の将たる者は臣下の忠言を聞き入れる資質がいる。
そして誰に何を言われようと曲げぬ己の義を持つものだ」
「…………」
「人は変わるが、それは己のみが責を負い、お前が及ぶものではない」
男が変わったのは義がなかった男自身のせいであって、綾葉の責任ではない。
それはわかる、だけど自分の存在は男だけでなく様々な人に影響を及ぼしてしまった。
「で、ですが……今までも私のせいで多くの人が命を落として、
その誰もが私さえいなければ今も平穏に暮らしていたかもしれません」
戦に負けた主もいた、綾葉の盾になった者もいた、匿ったばかりに無残に殺された人もいた。
綾葉と出会った為に死んでしまった人は少なくない。
それを思うと自分の存在が酷く汚れたもののように思えて仕方がない。
人の命を奪っておきながら、今自分は此処でのうのうと生きている。
(裁かれなければいけないのは、私だ……)
考えていた事が伝わったのか、ふいに三成が咎めるような目で綾葉を振り向いた。
「ならば此処から去り、浮浪者となって野垂れ死ぬか?」
苛立っているようにも見える色に少しだけ身が萎縮した。
「お前が死ねば踏み台も死ぬ、それで満足するのか?そのような安易な考えで世が変わるなら好きにしろ」
「……っ」
背負え、主はそう言っている。
殺してしまった人、死なせてしまった人の分も自分は最後まで生きなければいけないのだ。
目的があった、だからここまで生きてきたんだ。
「貫け、己の義を」
――「守る為には斬らなければならない、貫く為には歪ませなければならない。
だが綾葉……斬ったもの、歪ませたものを一生忘れてはいけない。怖くても、忘れてはいけない」――
――「己の義を忘れるな、己が斬ったものを忘れるな……死んでいく者達を忘れるな」――
(三成様……長政様と同じ事言ってる……)
遙かな昔に教えられた言葉を思い出し、目の前の不器用な主を見つめ返す。
瞳に力が戻ったと気付いたのか、主は再び顔を背けて筆を握った。
「生きて世を変えろ、お前は俺にそれを望んだのだろう」
「……………はい」
礼の代わりに綾葉は深々と頭を下げた。
一生付いて行くともう一度誓いたかったからなのかは自分でもよくわからないが、何だか無性にそうしたかった。
胸が詰まって言葉は出てきそうになくて、ただ目頭はとても熱かった。
気配でそれを感じ取った三成は、少しだけ視線をずらして綾葉を見つめた。
彼女は浅井長政の代わりを求めて様々な人間を渡り歩いてきたのだろう。
主が道を外せば臣下は離れる、それはおかしい事ではない。
死別を繰り返し、そして三成に出会い今も変わらず傍にいる。
あれは自分の前では自身の意見もあまり述べた事はなく、影のようにそこにいた。
何度追い払っても必ず後ろにいて、笑っていた。
左近のように自分が起用した訳ではなく、何故か最初から付き従っていた。
綾葉を見ていると時々思う、そんなにも自分は従われる身かと。
そしてあの男のように自分も変わらないとは限らない。
現に綾葉の存在は自分の感情に確かに作用していて、それが今後どうなるかはわからない。
だからだろうか、自分でも矛盾しているとはわかっているのに思わず口にしてしまったのは。
「……俺はお前に従われる器か?」
「………三成、様?」
「この先も俺に仕え、もしいつか俺が道を外す日があれば、諫めてくれるか」
「も、もちろんです!私などが許されるのならば……全力でお止めいたします!
たとえこの首が飛ぼうとも、最期まで三成様を信じております」
突然の不安を誘う言葉に綾葉は真意をわかりかねたが、
興奮したように身を乗り出すと三成は少しだけ表情を緩めた。
「……ならば、それでいい」
そうして再び眼光を強めると、確かめるように配下を見据えた。
「綾葉、お前は俺に何を望む?」
「……誰も不条理で死なない、太平の世です」
「ならば見せてやる、お前の望む世を。だから付いて来い。
それでもし俺が死ぬような事があれば……躊躇わずに他へ行け」
「私は何処にも行きません!私が死ぬのは三成様の傍です!それで死ねるのならば……最上の悦びです!」
僅かに潤んだ瞳を輝かせて綾葉ははっきりと答えた。
かち合った視線が逸らされないまま暫くの時間が経ち、ふと三成が息を吐いた。
「ふ……お前を死なせなかった浅井長政の気持ちがわかった気がする」
「……っ!」
笑ったのだ、少しだけ。
かつての主の名を聞いた事ではなく、確かにそのぎこちない表情に綾葉は動揺した。
「お前になら影響されても、悪くはない」
心臓が跳ね上がり、顔が赤くなったのが自分でもわかった。
言葉の意味を頭で反芻させながら、それでも呆然と主を見上げ続ける。
恥ずかしいくらいに嬉しくて、そして胸は痛んで。
「み、三成様!」
「…………何だ?」
不機嫌に戻ってしまった三成がこちらを向く。
どうして名を呼んでしまったのかわからない、どうして声を上げてしまったのかわからない。
咄嗟にとってしまった行動に驚きながらも、隠しきれない狼狽は自身の何かを壊そうとして、
溢れ出る感情のまま綾葉は次の言葉を口にしようとした。
今なら、もしかして言えるのかもしれないと。
「…………いえ……何でもありません」
「ならば呼ぶな」
咎めているようにも見えない返事を聞きながら、綾葉は部屋を後にする。
早足で廊下を駆け抜け、人気のない場所を選ぶとその場にしゃがみ込んだ。
(言える、訳がない……)
「いいのか?殿を引き留めるなら今だぞ」
ゆっくりと背後に現れた左近は全てを知っているかのように呟いた。
何故知っているのかとか、聞いていたのかとか、問いただす余裕は綾葉にはなかった。
「だって……しょうがないじゃないですか……縁談は決まってしまった事なんですから」
俯いている綾葉には見えない位置で左近は呆れたように大きく溜息をつく。
「あのな、まだ祝言を挙げた訳じゃない。殿が断ろうと思えばいくらでもできる」
「駄目です、三成様ともあろう方が姫君を悲しませる事など……それに、
三成様は私が恋情でお傍にいる事を露ほどもお考えでないでしょうから……」
「それは言ってみなければわからんだろう」
「いいんです、私は……私は、それでもお傍にいられるのなら……」
ぽたりぽたりと、熱い雫が床に染みて水たまりを作る。
本当は泣き崩れたいのだろう、だけどそれをしようとはしない綾葉は肩だけを震わせて、
微かに漏れる嗚咽すら必死に殺そうとして痛々しい。
せめて、と左近は肩ぐらい撫でてやろうとしたがその手を押しとどめた。
自尊心の高い彼女はきっとそうされる事も嫌がるだろうから。
「……馬鹿だなぁ、女は男に愛されてこそだと思うんだがね」
想い合っているのだから、こんな回り道しなくてもいいものを。
「殿も、馬鹿なお人だ」
想っているからこそ言えない恋心なんて。
この空間を好むのは恐らく自分ぐらいだろうと思う。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「……ああ」
端的な会話もすぐに途切れる無言の空間。
冷たい雰囲気などどこにもない、あるのはやんわりと身を包む春の風のような。
静かな場所を綾葉は噛みしめながら微笑んだ。
自分を穏やかな気持ちにさせるもの。
繋がりが薄いと思われるかもしれないが綾葉にとってはこの距離感が好きだ。
主の目に入っていない訳ではない、取るに足らない者だと思われている訳でもない、
空気のようにそこにいても違和感すらなく、存在しても許される特別な位置。
今まで渡り歩いていた過去を思い出して気付いた。
"長政様"を失って以来、誰かに仕えながらもどこか孤独を感じ、誰にも頼ろうとはせず自分の力だけで生きてきた。
裏切られないように、いつでも戦えるように、そしていつでも出て行けるように。
その荒んでいた心を穏やかにさせたのは、この背中だ。
人を信じきる事ができなくなっていた綾葉を変えたのは三成だ。
いつの間にか、不器用な温かさに救われていた。
「そこの物を分類しておけ、後で必要になる」
「はい」
主の気質を理解し、最初の頃は首を傾げるような事も今では楽にこなせて。
言葉など必要ないぐらいには阿吽の呼吸で動けるようになったと思う。
だけど主は決定的に言葉が足りない。
だから何度も彼を誤解し、怯え、そのたびに彼の器の大きさを知った。
「………あ…この香りは」
ふわりと部屋にまで微かに漂ってきた匂いに綾葉は障子へと顔を向けた。
すっと立ち上がり仕切りを少しだけ開けると、庭の奥に控えめに咲いた薄桃色の木花が目に入った。
そうか、もうそんな季節になっていたのか。
どうりで近頃寒い訳だと綾葉は頬を緩ませる。
「三成様、山茶花です。あんなに遠くにあるのに匂ってくるんですね」
障子を開けたせいで匂いは幾分か強くなって鼻腔をくすぐる。
綾葉の言葉に反応もせず筆を動かしていた三成は、暫く経ってようやく顔を上げた。
感動している訳でも不快に思っている訳でもなさそうな読めない表情で、じっと庭を見つめて。
「……すみません、苦手でしたか?」
「………いや、別に好きでも嫌いでもない」
この人らしい感想だと微笑んで、だけど綾葉は振り向いた主に思わず見惚れた。
さらさらと風に乗って揺れる鷲色の髪がまるで絵のようで。
静かな目でぼんやりと見る山茶花の花弁は、彼にはどのように映っているのだろうか。
この景色を、もうすぐ別の人が見るようになる。
チリ、と胸が焼けるように痛んだ、嫌だと心が叫んだ。
(私……三成様の事……こんなに好きだったんだ……)
少し前に気付いてしまった感情は、今や持て余すほど綾葉の中で膨らんでいた。
別に、主が祝言を挙げても配下は変わらず傍にいればいい。
だけどこれ以上主の不器用な優しさが誰かに、特に女性に向けられるのだと思うと気に入らない。
独占したいと思う、自分にだけ……向いていて欲しいと思う。
彼が誰かを愛する様を、傍で見ていたくなんかない。
かといって此処から出て行ける訳ではないというのに。
「…………もうすぐ、ですね」
目を逸らして、色褪せ始めた緑の中で浮かび上がるように咲く薄桃を見つめていたはずだった。
しまったと思ってもそれはしっかりと伝わってしまったらしく、怪訝そうにしている主の気配を感じた。
ここまで言ってしまったのだから仕方ない、と綾葉は躊躇いながら続ける。
「……縁談の日取り、です」
「…………ああ」
思い出したかのように三成は浮かない声で答えて同じように遠くを眺めた。
縁談の席で、総大将である秀吉から初めて臣下達に伝えられる。
硬くならなくてもいいという秀吉の計らいでささやかな宴が催され、その後に相手方との縁談に入る手筈になっている。
そこで綾葉は初めて主に輿入れする女性を見る事になる。
耐えられるだろうか自分に、いやきっと耐えられる。
(長政様の時も、見てきたのだから……)
互いに黙りこくり、気まずい空気になってしまったなとくすりと笑い綾葉は三成に茶を勧めた。
主は湯呑みに手を伸ばそうとはせず自分だけでも茶を喉に押し流したが、あまり味はわからなかった。
「お茶、美味しいですね」
「……自分に甘い人間だな」
「すみません……でも美味しいですよ、茶請けと一緒に食しますと尚更」
「先程口にした。何口呑もうとも味は変わらぬ」
三成はいつもの調子で言葉を吐き、綾葉はそんな様子がおかしくて終始頬を緩ませて。
「騙されたと思って是非呑んでみて下さい、今は山茶花の色と香が茶請けになります」
「…………」
「どうですか?」
渋々茶を飲み込んだ三成は恨めしそうに綾葉を睨んだ。
どうやら前とは味が少しばかり違ったらしい。
「お前……左近に似てきたな」
「そうですか?それは光栄です」
そうして綾葉と三成に残された大切な日々が、過ぎていく。
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空気を読んで一緒にいない左近。
サザンカには「ひたむきな愛」という花言葉があります。
良い匂いだそうですね。
※労役刑は江戸時代には行われてなかったそうですが、
随分調べましたがこの時代についてはわかりませんでした。
ので間違っているかもしれませんので、何となく、何となくで解釈をお願いします。
矢太郎が死罪を免れた事を書きたかっただけなのです。